津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後の魚住氏

2020-10-24 14:00:37 | 侍帳

 「新・肥後細川藩侍帳」の改定作業の中で、現在「魚住氏」でうろうろしている。
播磨屋さんの「武家家伝  魚住氏」によると、魚住氏は「播磨国明石郡魚住」に住していたとされる。
細川家には三つの流れの魚住氏があるが、三流とも播磨との関係は見て取れないが、いずれにしてもその出自はそうなのであろう。

一つの流れは青龍寺以来の「魚住市正昌永」を祖とする「魚住万之允家(南東31-18)」と「魚住格助家(南東31-19)」である。
     市正昌永  若州逸見一族にて、家老相勤候、逸見駿河守没落已後、於青龍寺被召出、御知行
           百石被下候、其砌丹後御拝領、国人御取鎮之御人数不足之御様子ニ付、逸見の家
           来残居候者共相催し、罷越相勤候処、御懇之御意被成下候、高麗陳其外所々御陳
           之御供仕、相働、追々御加増三百石被下、御鉄砲十五挺御弓十五張の頭被仰付候、
           豊後木付ニ被差越、於彼地働申候、豊前御拝領之節、木付并数度戦功之為御褒美、
           御知行千七百石御加増、都合二千石ニ而御郡代、御留守支配相勤、病死

いま一つは丹後以来の「魚住加賀(右衛門兵衛)」を祖とする「魚住勝門助家(南東31-21)」「魚住武兵衛家(南東31-20)」「魚住太郎家(南東31-22)」の三家である。
     加賀(右衛門兵衛) 
           丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節(立石表於鑓下)之御加増千七百石都
           合二千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄砲五十挺御預被成候、其後病死

        木付に於ける戦功に対し黒田如水から右衛門兵衛への感状 (綿考輯録・巻十五)
            一昨日之御働、手柄之段、松佐州・有四郎右御物語候、於拙者満足不過之候、
            今日爰元相済候而、明日其地参、面を以万々可申入候、恐々謹言
               九月十五日                    如水軒 書判
             魚住右衛門兵衛殿 参御宿所

          右衛門兵衛(加賀)の御子孫にはご厚誼をいただいており、黒田如水の感状を家宝としておられる。

     魚住太郎家の9代・勝熊(源次兵衛・勤)三百石・御鉄炮頭
     魚住 勤  名は勤、初名は良之、又眞郷と云ひ、源次兵衛と称す。世禄三百石、
           藩に仕へ鉄炮頭となる。林櫻園に学びて国体の学を修め、又剣槍及び射を善くす。
           我が藩に於ける古勤王の巨頭たり。威信の際に於て勤王党一方の領袖として国事
           に盡瘁せり。明治十三年九月歿す。年六十四。墓は上益城郡白旗村にあり。
           遺著山陵遥考あり。明治三十五年一月従四位を贈らる。 

あと一家どちらの流れにも属さないと思われる「魚住助左衛門家(南東31-23)」もある。郡代などを勤め200石。

付けたし:
さて、NHKのアナウンサー・魚住優氏(福岡局)は女優・浅野温子さんの一人っ子で、父親は作詞家の魚住勉氏であり、勉氏は熊本のご出身、ご先祖様はどちら様なのか、いまだ手掛かりが掴めずにいる。
ファミリーヒストリアで取り上げてもらえないかしら・・・

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■欲しいけれど・・場所がない

2020-10-24 09:00:13 | オークション

             新訂寛政重修諸家譜!全26巻揃い!続群書類従完成会!本体は美本!

              

 まだ4日を残しているから、現在の入札価格は問題にならないが、調べてみると他にも出品されていて60,000円とある。
「欲しいけど・・場所がない」とタイトルに書いたが、「場所もないけど・・金がない」が本心である。
全26巻、これが本棚に並んでいると心豊かになるだろうし、調べごともチョイと済んでしまう。
同様の調べ事をするには、車の免許を返した今図書館に出かけるのも大いに難儀である。
好きな本に囲まれて過ごす生活は、夢のまた夢である。

 

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■細川小倉藩(385)寛永六年・日帳(閏二月廿六日)

2020-10-24 07:21:35 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年閏二月)廿六日                

         |       
         |     廿六日  加来二郎兵衛
         |                                           (国東郡)
         |一、続二右衛門尉大坂ゟ罷下候、江戸ゟ御飛脚二人罷下候を乗せ、中津へ参候処、日和悪敷二付、伊
         |  美ゟ御飛脚ハ上り、一昨日中津へ参由、さ候て、右二右衛門も、昨浅中津へより候ヘハ、はや御
         |  飛脚ハ中津を仕廻、罷出候由承候二付、罷戻候年にて、登城申候事、
         |                   (与脱)
飛脚江戸ヨリノ旅 |一、佐分利兵大夫与矢津少介・伊藤金左衛門村上次左衛門江戸ヲ壬二月十五日ニ出、中津へ壬二月廿
程        |  四日ニ着、小倉へ廿六日巳ノ上刻ニ着申候事、
江戸ヨリノ来状覚 |一、御飛脚ニ参候、御書之覚
         |         (松井興長室、三斎女)
         |  一、御書一通 御こほ殿持せ進之候、
         |            (長沢顕長室、沼田清延女)
         |  一、御自筆ノ御書一通 いよ殿へ、黒瀬九郎右衛門ニ渡、
         |  一、御書    一通 修理・兵庫へ、
         |  一、同     一通 清半入へ持せ進候、
         |  一、同     一通 春木金大夫へ、
         |     (左)  (同重政)
         |  一、長岡佐膳殿ゟ右馬助殿へ御状一通持せ進候、
         |     (三淵之直)  
         |            (烏丸光賢女)
じゆくわう院   |  一、じゆくわういんゟ御ねゝ殿へ参御ふミ、黒瀬ニ渡候事、
         |   (吉田浄珍)
         |  一、盛法院ゟ式ア殿へ状持せ進候事、
         |     (辰珍)   (小笠原長元)
         |  一、津川四郎右衛門殿ゟ備前殿へ状持せ進候事、
         |          (加々山可政)        (竹原)
         |  一、竹原少大夫より主馬殿・三宅勘三郎・以凡ヘノ状遣、
古舟廃毀ト決ス  |一、河田八右衛門・矢野勘右衛門ゟ、使にて被申越候ハ、古舟之儀こわし申ニ相談相究候間、御奉行
         |  一人可被下由、被仰越候事、
         |          (弘光)
         |一、乃美市郎兵衛ゟ深野次郎右衛門ヘノ状持せ遣事、
京都借銀払ノ目録 |一、京都ゟ、御借銀のもくろく江戸へ差上申候ヲ、爰元ニて御覧被成、目録と少相違申候間、引合
相違アリ引合ヲ命 |  可申旨被仰下ニ付、右之もくろく粟野伝介ニ渡、右之様子とも申渡事、
ゼラル      |
江戸ヘノ飛脚   |一、杉山藤兵衛与清原又介・続亀介与河口加右衛門、此二人今晩江戸へ遣、江戸逗留ノ筈ニ遣由、小
旅費       |  頭申候、但、中之遣銀片道分可遣由、申渡候事、
         |一、右之御飛脚のせ上り候小早之御船頭石井又左衛門登城申候事、     (昭光)
三斎書状     |一、右之御飛脚両人ニ、 三斎様ゟ御返書しぶかミ包壱からげ、一色木工・槙島云庵、両人ゟ坂崎清
         |  左衛門殿と有之状壱つ、貴田権内ゟ寺嶋主水ヘノ状壱つ相渡候、
         |                      (松野親英) (町)   (小篠)                 し
光尚付侍臣ノ切米 |一、我々両人ゟ 御請ノ文箱壱つ、金子喜左衛門ゟ織ア・三右衛門・次大夫へ 御六様衆御切米さ引
差引ノ書付    |  の書付先日遣候、相違有之ニ付、重而申遣状壱つ、江戸御奉行衆三人へ状壱つ、野田小左衛門へ
         |  ノ状壱つ、右両人ニ相渡候事、
白蓮花ノ根    |一、寺嶋主水へ、白蓮花ノ根事、上林甚助ゟきりかミニ状ヲそへ、上せ候事、

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