私は阿蘇神社の二宮を陣内阿蘇神社、三宮を立田三ノ宮神社だとずっと思いこんできた。
肥後古記集覧を読んでいたところ、どうやらこれが思い違いだと知った。
「拾遺昔話一」は阿蘇家や阿蘇神社のことが書かれている。
この中から改めて二つの事実を確認した。
1、「阿蘇大宮司公神孫御代々之事」のなかに「阿蘇二の宮を阿蘇都媛と奉申候、草部吉見神社の御事也」とある。
何と/\草部吉見神社だとは思いがけないことだった。
「日本三大下り宮」の一つだとされる古い歴史と神々しい雰囲気をかもし、若い人たちにも知られる有名な神社である。
しかしながら私は残念ながら当地を訪れたことがない。
余談ながらこの神社は、史談会の会員であるK氏の祖父にあたられるR氏のご先祖様芹口氏(日子八井命の神統)が創建以来、天正兵乱に至るころまで宮司を勤められたとお聞きする。
2、私の地元にある「健軍神社」は阿蘇四ヶ社の一つとされ、近所にある「三郎」という地名は、健軍神社を治めた阿蘇三郎に由来している。
この神社は、真西に向かって建てられていて、その参道は「八丁馬場」として知られる。
阿蘇神社は東に向かい建てられているというが、これは「王城鎮護にため」だとされる。
「健軍神社」の西向きにも理由があった。「異国しらき(新羅)をのそけたまハんとて・・・」とあった。
齢78歳にして又一つ知識を得た。処で「陣内阿蘇神社」を二宮としているのはどういう事なのだろうか?