津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(439)寛永六年・日帳(八月廿ニ日~廿三日)

2020-12-23 09:35:48 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)廿ニ日~廿三日

         |                
         |    廿一日  安東九兵衛   
         |
三斎隼ヲ召上グ  |一、当地御鷹師衆打申隼壱居、 三斎様ゟ被 召上ニ付而、今朝次飛脚にて持せ遣候事、
         |  (規矩郡)
筑前へ走越シてん |一、今村之新百性又右衛門尉・助市と申者両人にて、筑前へ走候もの壱人とらへ来申候、いつれの
りう寺小者ヲ捕ウ |  ものにて候哉と尋候処、てんりう所ニ居申ものゝ由申候、彼ものさし居申わきさしヲ、為褒美、
走小者ノ脇差ヲ褒 |  右両人之百性ニ遣候也、但、請取切手をさせ、大靏六左衛門・波多理右衛門ニ当させ遣候也、
賞ニ与ウ     |
闕所奉行宛請取  |
忠利ヨリ三斎へ音 |一、江戸ゟ、杉山藤兵衛与野坂茂太夫・御長柄衆壱人、江戸ゟ只今参着申候、三斎様へ御文箱壱つ、
信 鮭ノ簀巻   |  鮭之すまき壱つ被進之候、則右両人ニ待せ候て、中津へ上申候事、
         |一、右ノ御飛脚ニ我等共へも 御書成被下候事、
誅伐       |一、うさ郡ノ渡茂介、今日誅伐申付候事、
         |                      (三斎側室、郡氏、松井興長室ノ母)
松井興長臼野村ニ |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候は、松丸様御らんとう仕候ニ付而、国東郡うすのにて石
テ松丸ノ石塔ヲ切 |                          (卵塔・無縫塔 
出サシム     |  とうを切せ申出候、左様ニ御座候ヘハ、うすのハ中津の御預入ましり候て在之由承候、式ア少輔
         |  殿御状斗にて埒明か申儀にて御座候や、様子相尋申候由、被仰越候、此方ゟ申候は、式ア少輔殿
         |  ゟ国東郡御郡奉行まて被仰遣候ハヽ、相済可申候間、左様ニ御心得可被成候由、申候也、
         |
                             
                           無縫塔(塔身が卵型をしている事から卵塔ともいう)
                (元明)
使者客人賄奉行暇 |一、住江甚兵衛登城ニ而被申候は、今程は別ノ御用茂無御座候間、此すきニ知行所見廻申度由、被申

ニ付知行所見分ヲ |  候間、御家老衆へ御出候而、右之通被仰付而、御知行所へ可有御越通、申渡候也、
願フ       |
誅伐ニ様斬    |一、今日之御誅伐もの、御大わきさし四腰ためし申候処、四こしともニ胴落申由、田中理左衛門被
         |  申候事

         |                
         |    廿二日  奥村少兵衛   
         |
宇佐郡新地永荒検 |一、うさ郡新地・永荒御検地之儀ニ付而、中津御領と小倉御領との出入之儀、御検地御奉行衆志水次
地ニ中津領トノ出 |  兵衛・蒲田賢斎へ様子被相尋、事済候処、又山村弥一右衛門中津へ参、蒲田ゟ状なとを取、又中
入 事済ミシヲ惣 |  津御領と小倉御領とノ出入之儀相尋、一つ書を仕、此方へ差越申ニ付而、御郡奉行宗像清兵衛を
庄屋差出ルハ不届 |  よひよせ候て、御郡奉行ノ可被存儀を、弥一右衛門尉かやうニさし出候事不届儀候間、清兵衛も
         |  中津へ被罷越、様子くハしく可被相極候、左候て、其次而ニ、重而も弥一右衛門かやうの儀さし
         |  出、いかやうの事を申候とても、■■御承引有間敷候通、委申届可被置由、清兵衛ニ申渡候事、
         |(ママ)
         |一、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■残念な司馬遼太郎の「謀殺」なる一文

2020-12-23 08:24:43 | 書籍・読書

 司馬遼太郎の文章は大変明快で確定的でテンポが良く、読むものを飽きさせない。
多くの愛読者を魅了する所以でもあろうが、読後に違和感も残るのは何故なのだろうか。「司馬史観」という言葉があるが、このマジックに引き込まれないようにしなければならない。
史実と異なるシーンを、まるで真実のように場面展開していく。一瞬これが本当なのかもしれないと錯覚させる。
例えば、彼の著「余話として」の中に、細川忠興が妹婿・一色義有をだまし討ちにした事件を「謀殺」という小文にしている。

それは、義有を新妻・細川伊也(忠興妹)の目の前で殺したというくだりである。それも結婚三日目だとしている。
伊也は弓木城におり、細川邸には来ていない。事件後細川勢が弓木城にかけ付、引き取った。
自信に満ちた筆致が小気味よいが、しかし史実とは明らかに違う。
この事件は細川家の歴史の中で、耳をふさぎたくなる汚点である。
それであるがゆえに、史実に近い形で書いてもらいたかったと残念で仕方がない。
読者に影響力ある司馬氏だけに、なんともいただけない作品でとなった。まさか「創作だから」ということはないと思うが?

私は1980年の第十一刷(文芸春秋社)の単行本を持っているが、この文章は最初オール読物に1960年に初掲載されたらしい。
都合20年この間違いに気づく関係者が居なかったのだろう。それからまた40年、現在は文庫本で発売されているようだが、そのままであれば残念の極みではある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする