日帳(寛永六年七月)廿六日~廿七日
|
| (ママ)
| 廿六日
|
江戸ヘノ状ノ覚 |一、我々ゟ言上ノ文箱ノ内ニ、御年寄衆ゟ之言上一つ・御金山衆ゟの言上壱つ、
| 一、式ア殿ゟノ言上文箱壱つ、又自徳院殿・坂清左衛門へ、式ア殿ゟしふかミ包ノ状一つ一包、
| 〃〃
| (沢村吉重)
| 一、大学殿ゟ、皆川治部・国遠道倫へ当候あまかミ包ノ大文箱壱つ、
| 一、八喜木工所へ御鷹ノ様子、渡辺三十郎・山本三蔵ゟ申遣状壱つ、
| 一、江戸諸奉行衆へ、我々ゟの状共遣候、其外方々ゟ、方々へ遣状共今日罷上候、福嶋五兵衛と申
| 御鉄炮衆ニ相渡、遣候事、
| (長沢顕長室、沼田清延女)
|一、江戸へ今日上せ候御鉄炮衆五兵衛、御物弐駄乗せ上り候、御船頭ハ野間正兵衛也、いよ殿ゟ寺嶋
| 主水かたへ参しふかミ包壱つ、右惣兵衛ニ渡ス也、
江戸ヘノ鉄炮足軽 |一、江戸へ御鉄炮衆廿人、九日之呉服、京ゟ下シ被申候ニ付候而、遣可申筈ニ候へとも、御馬舟来ル
廿人ヲ馬舟ニ乗セ | 廿八日ニ上せ申候、此御舟ニ廿人ハ乗申事成申候、各別ニ御舟仕立、上せ可申よりも、来月二日
タシ 八月朔日ハ | を来ル廿八日ニちゝめ、上せ可申と申付候処、来月朔日利堺にて御座候ニ付、右ノ御鉄炮衆ニ渡
利堺 鉄炮衆ニ渡 | 申御借米新米を以可相渡候、併、御蔵入仕たる新米無御座候、来月二日ニ上り候は、其内ニハ新
スベキ新米ナシ | (加藤)
諸奉行惣談 | 米納り可申候由、新兵衛被申候而、新兵衛・伝介・財津惣兵衛よひ候て惣談仕候ニ、利堺を越候
新古米ノ振替 | 古米ハ、御蔵ニ有之とても、利付申候哉、左も無之候は、古米を渡、さ候て新米を遣候、古米遣
舟ニ各別ニ仕立ツ | 候処ニ渡シ、ふりかへ遣候儀成申事ニ候ハヽ、古米を可被相渡候、一両日之事ニ、御舟各別ニ仕
ハ利息ノ損 | 立候ヘハ、利ほとハ御損ニ立申候間、其分ニ可然と、惣談きわめ申候也、
|一、安田甚九郎母、一昨日病死被仕由、粟野伝介被申候事、
|
| 廿七日 加来二郎兵衛
|
筑前ヨリ研師小倉 |一、筑前ゟ與左衛門尉と申とぎ、昨日下関舟ニ乗、小倉へ参候、生国紀伊国之ものにて御座候処、卅
ニ来ル | 七八年以前ニ筑前へ罷下、今迄逗留仕居申候へとも、小倉へ参度と存、参候由候、又きやうが
山伏 | くと申山伏、是ハ生国長門のものにて御座候、右之ときやと親類にて御座候付、一所ニ罷有度由
| にて同船にて罷越申候、右乗参候舟ハ関舟ニて候ゆへ、須崎ニおろし置、舟ハ罷帰申候、然処御
| 船頭中村二郎右衛門女房ノためニ、右ノときや與左衛門女房ハいもとにて御座候、次郎右衛門尉
ソノ係類共八人小 | ハ江戸へ参居申ニ付而、御船頭三木清太夫、右之通紛ム御座候、右與左衛門・山伏ノ人数、以上
倉居住ヲ望ム |
三家老裁許 | 八人ニ而御座候、小倉ニ罷居度由申候間、川口被成御入被下候様ニとの書物〇被差上候間、御年
| 寄衆へ此段被申理候哉と、善右衛門ニ相尋候処、善右衛門申候ハ、御家老衆三人ともニ申上候へ
| ハ、御奉行衆へも申理、早々小倉町へ入候而可然由、被仰付通被申候付、其分ニ可被仕通申渡候
| 殊、右ノ書物も、善右衛門所ニ被取置候へと申渡候也、
|
家中ノ後家ノ姉ヲ |一、生源寺市兵衛登城ニ而被申候は、北村次右衛門女房は、樹下作右衛門姉にて候、次右衛門相果、
知行所へ引取タシ | 爰元ニ而勘忍難成ニ付、作右衛門知行所へよひよせて、やしない申候、左様ニ候ヘハ、作右衛門
| 迎ニ参候而、引越申度候へとも、此間作右衛門煩候而、爰元罷出候事難成、速水長三郎と痔右衛
| 門尉女房は、おばおひの間ニ而御座候、長三郎召連候て、作右衛門知行所へ参度の由申候、如何
| (も)
| 可有御座やとの、市兵衛被申様にて候、とくかくも、貴殿御分別次第ニ可被成之由、返事候也、
鍛冶奉行新鍛冶ヲ |一、御鍛冶奉行桑方猪介・田辺七左衛門両人登城ニ而、今度御仕事被仰付新かちとも、御礼を申上度
伴ヒ登城シ礼セン | 由ニ而、登城仕候、罷出御礼申上候へと、其まゝ礼を申され候、我々申候ハ、各ハたれの差図に
トス 職人ヨリ | てかちともをめしつれ被参、礼を申させられ候や、一ゑんかてん不参候、惣別諸職人を請候
礼ヲ請ケシ例ナシ | 儀、今迄ハ無之候、たれの差ズにて候哉と、色々尋候へ共、たれのさしつとも不申候間、此方ゟ
礼ハ請ケズ | 申候ハ、是へ参候とて、礼を請たるにてハ無之候間、其心得仕候へと申渡候事、