津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(431)寛永六年・日帳(七月廿六日~廿七日)

2020-12-15 12:46:41 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年七月)廿六日~廿七日

         |
         |          (ママ)       

         |     廿六日  
         |
江戸ヘノ状ノ覚  |一、我々ゟ言上ノ文箱ノ内ニ、御年寄衆ゟ之言上一つ・御金山衆ゟの言上壱つ、
         |  一、式ア殿ゟノ言上文箱壱つ、又自徳院殿・坂清左衛門へ、式ア殿ゟしふかミ包ノ状一つ一包、
         |                                        〃〃
         |    (沢村吉重)
         |  一、大学殿ゟ、皆川治部・国遠道倫へ当候あまかミ包ノ大文箱壱つ、
         |  一、八喜木工所へ御鷹ノ様子、渡辺三十郎・山本三蔵ゟ申遣状壱つ、
         |  一、江戸諸奉行衆へ、我々ゟの状共遣候、其外方々ゟ、方々へ遣状共今日罷上候、福嶋五兵衛と申
         |    御鉄炮衆ニ相渡、遣候事、
         |                                      (長沢顕長室、沼田清延女)
         |一、江戸へ今日上せ候御鉄炮衆五兵衛、御物弐駄乗せ上り候、御船頭ハ野間正兵衛也、いよ殿ゟ寺嶋
         |  主水かたへ参しふかミ包壱つ、右惣兵衛ニ渡ス也、
江戸ヘノ鉄炮足軽 |一、江戸へ御鉄炮衆廿人、九日之呉服、京ゟ下シ被申候ニ付候而、遣可申筈ニ候へとも、御馬舟来ル
廿人ヲ馬舟ニ乗セ |  廿八日ニ上せ申候、此御舟ニ廿人ハ乗申事成申候、各別ニ御舟仕立、上せ可申よりも、来月二日
タシ 八月朔日ハ |  を来ル廿八日ニちゝめ、上せ可申と申付候処、来月朔日利堺にて御座候ニ付、右ノ御鉄炮衆ニ渡
利堺 鉄炮衆ニ渡 |  申御借米新米を以可相渡候、併、御蔵入仕たる新米無御座候、来月二日ニ上り候は、其内ニハ新
スベキ新米ナシ  |         (加藤)
諸奉行惣談    |  米納り可申候由、新兵衛被申候而、新兵衛・伝介・財津惣兵衛よひ候て惣談仕候ニ、利堺を越候
新古米ノ振替   |  古米ハ、御蔵ニ有之とても、利付申候哉、左も無之候は、古米を渡、さ候て新米を遣候、古米遣
舟ニ各別ニ仕立ツ |  候処ニ渡シ、ふりかへ遣候儀成申事ニ候ハヽ、古米を可被相渡候、一両日之事ニ、御舟各別ニ仕
ハ利息ノ損    |  立候ヘハ、利ほとハ御損ニ立申候間、其分ニ可然と、惣談きわめ申候也、
         |一、安田甚九郎母、一昨日病死被仕由、粟野伝介被申候事、  

         |       
         |     廿七日  加来二郎兵衛
         |
筑前ヨリ研師小倉 |一、筑前ゟ與左衛門尉と申とぎ、昨日下関舟ニ乗、小倉へ参候、生国紀伊国之ものにて御座候処、卅
ニ来ル      |  七八年以前ニ筑前へ罷下、今迄逗留仕居申候へとも、小倉へ参度と存、参候由候、又きやうが
山伏       |  くと申山伏、是ハ生国長門のものにて御座候、右之ときやと親類にて御座候付、一所ニ罷有度由
         |  にて同船にて罷越申候、右乗参候舟ハ関舟ニて候ゆへ、須崎ニおろし置、舟ハ罷帰申候、然処御
         |  船頭中村二郎右衛門女房ノためニ、右ノときや與左衛門女房ハいもとにて御座候、次郎右衛門尉
ソノ係類共八人小 |  ハ江戸へ参居申ニ付而、御船頭三木清太夫、右之通紛ム御座候、右與左衛門・山伏ノ人数、以上
倉居住ヲ望ム   |
三家老裁許    |  八人ニ而御座候、小倉ニ罷居度由申候間、川口被成御入被下候様ニとの書物〇被差上候間、御年  
         |  寄衆へ此段被申理候哉と、善右衛門ニ相尋候処、善右衛門申候ハ、御家老衆三人ともニ申上候へ
         |  ハ、御奉行衆へも申理、早々小倉町へ入候而可然由、被仰付通被申候付、其分ニ可被仕通申渡候
         |  殊、右ノ書物も、善右衛門所ニ被取置候へと申渡候也、
         |
家中ノ後家ノ姉ヲ |一、生源寺市兵衛登城ニ而被申候は、北村次右衛門女房は、樹下作右衛門姉にて候、次右衛門相果、
知行所へ引取タシ |  爰元ニ而勘忍難成ニ付、作右衛門知行所へよひよせて、やしない申候、左様ニ候ヘハ、作右衛門
         |  迎ニ参候而、引越申度候へとも、此間作右衛門煩候而、爰元罷出候事難成、速水長三郎と痔右衛
         |  門尉女房は、おばおひの間ニ而御座候、長三郎召連候て、作右衛門知行所へ参度の由申候、如何
         |                      (も)
         |  可有御座やとの、市兵衛被申様にて候、とくかくも、貴殿御分別次第ニ可被成之由、返事候也、
鍛冶奉行新鍛冶ヲ |一、御鍛冶奉行桑方猪介・田辺七左衛門両人登城ニ而、今度御仕事被仰付新かちとも、御礼を申上度
伴ヒ登城シ礼セン |  由ニ而、登城仕候、罷出御礼申上候へと、其まゝ礼を申され候、我々申候ハ、各ハたれの差図に
トス  職人ヨリ |  てかちともをめしつれ被参、礼を申させられ候や、一ゑんかてん不参候、惣別諸職人を請候
礼ヲ請ケシ例ナシ |  儀、今迄ハ無之候、たれの差ズにて候哉と、色々尋候へ共、たれのさしつとも不申候間、此方ゟ
礼ハ請ケズ    |  申候ハ、是へ参候とて、礼を請たるにてハ無之候間、其心得仕候へと申渡候事、

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■プロモーションメイルを全削除

2020-12-15 09:05:16 | 徒然

 最近わがノート電脳器の動作が重くていろいろチェックしていたが、今朝メールを眺めているうちに「プロモーション」という欄に気づいた。
通常使っているメインメールが今日現在2,185あるが、こちらは時折チェックして、不要なものは削除してきた。これにプロモーションメール24,800余通が遺されたままであった。このノートPCにしてから3年余、プロモーションメールは一切削除しておらず積もり積もっていた。
動作が遅い原因の一つかもしれないと思い、この便秘状態をなくそうと、一気に全削除した。
その後のサクサクになったとも思えないが、何となく良い感じだ。
購入してあまり眺めたこともないWindows10のマニュアル本を眺めてみようかと思い、本棚から取り出してゴミを払った。
                     
                                                                    

 

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(九)

2020-12-15 06:40:02 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (九)

 ・・・・さうした強い良人の愛と、五人の子女の教育と、又、多くの家臣やうるさい世評の中に
生きて來たこの十幾年のうちに、彼女は、いつのまにか、誰のも云はないものを、そつと心に
持つていた。
 心の支へなくしては、生きとほしては來られなかつたのである。年月はたつても、何かにつ
け、地わるい世間は、
「叛逆者の娘・・・・」
 と、いふ眼ざしを、容易には、忘れ去らない。
 いや世間よりか、彼女自身のうちに、二十歳の折に、頭へふかく抉りこまれた深刻な觀念が、
ともすれば生々と、疼いてくる。ひがんで來るのである。
「・・・・わたしは叛逆者の娘だ」
 いけない!   さう思ひながら、消し去ることができなかつた。何かの折、ふと、
「光秀」
 とでも、人の口から洩らされると、匕首で旨を刺し貫かれたやうに、どきつとする。・・・・そ
れはもう意識のものでなく、後天的に習性にまでなつていた。
 この苦患から救はれなくては、明るく、和らかく、どうして良人に接して行かれよう。五人
の子女に、良い母となつて、教養を授けてゆかれよう。・・・・又、その苦悩に自分の心が蝕まれ
てゆくのも辛い。家庭が畸形になりさうな氣がするのがわれながら恐い。
 伽羅奢は、遂に、その救ひを見つけた。
 信仰であつた。・・・・忠興の弟、興元も奉じているし、良人の友人で高槻の城主たる高山右近
も入教してゐる基督教であつた。
 矢もたてもなく、彼女は、新しい教養を求めて、大坂城下のセスペデスの教會堂へ通つたの
である。・・・・勿論、裏門表門に、晝夜警固の武士がゐるので、忍んで出る苦心もなみたいてい
ではなかつた。いつも御霜の才覺で、被衣して召使の女に僞装したり、門番の合鍵を手に入れ
たりして、禮拝堂に通つた。
 そして、或る時、
「もう参れるかどうかも知れません、どうぞわたくしに、洗禮を御授けくださいませ」
 と迄、信仰の一途を訴へたが、師父のセルぺデスは、受洗してもしないでも、信仰さへ懸命
につらぬけば・・・・と、肯きいれてくれなかつた。
 師父は、彼女を、秀吉の寵室にゐる女性かと疑つたのである。それほど、彼女は異國人の眼
にも高貴に映つてゐたし、又、絶對に名を隠してゐたからである。
 それが、いつか良人の忠興の耳に知れた。彼は、新宗教を邪視してゐたひとりなので、捨兒
長屋とゝやうに、
「やめろ。改宗はならぬ」
 と、自分の嫌ひを一點張に云つて迫つた。
「ほかの事なら、どのやうな事でも御意に從ひますが、こればかりは、わたくしの心の柱と打
ち立てたものですから」
 と、夫人はいつに似げなく鞏固に、忠興の不機嫌が納まるまで、手をつかへたきり哀願を
やめなかつた。
 それでも、忠興が、唇をむすんだきり『うん』と云はないので、彼女はかう云つた。
「・・・・お忘れ遊ばしましたか。あなた様が二十歳、わたくしも二十歳の六月。お叱りをうけて、
三戸野の山へやられました時、あなた様は、私へかう仰せになりました。・・・・そなたは卑怯で
はないか、母として生きる道、妻として生きぬく道、その辛い長い道をわすれて、いちばん客
易い死の道をいそぐ法やあると・・・・。わたくしはあの折のお叱りを、胸に石碑としております。
それ故に、求めてさがし得た信仰でございます。生きる道の力とも燈火ともして」
 云ひ終らないうちに、忠興は、
「うるさい、うるさい。それほど好きなれば、勝手に信仰せい。・・・・だが、わしの眼の見える
ところではするな」
 と、云つて、手枕で横に寝てしまつた。

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