津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(三)

2020-12-06 17:49:17 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (三)

 さすがに女ばかりの奥の丸にも、もう京都の空の煙煙りが、日本中を變革してゐる大事變だつ
た事が知れ渡つていた。
 ・・・・が、こゝでは。
 逆臣とか、大悪人とか、光秀とかいふ聲は、ひそとも聞えない程、慎まれてゐた。
 つい四年前に輿入したばかりの、若い美しい忠興夫人は、その明智家の二女であり、大逆人
の光秀のむすめである事を、お下婢の女童までが、知らぬはないからであつた。
「・・・・伽羅奢、伽羅奢」
 忠興は、時分の居間から呼んでゐた。
 局のはうと知つて、軈て、自分から足を運んで行つた。誰ひとり召使すら迎へないのである。
そして彼女の部屋を窺へば、そこにも侍女ひと侍いてゐなかつた。
「・・・・」
 たゞ見る・・・・そこにひたと聲もなく泣き伏してゐる黒髪の人がある。
「伽羅奢・・・・・・。伽羅奢っ」
「・・・・はい」
 漸くに、彼女は面を上げて、眼の前に、ぬっくと突立つてゐる良人の姿を見上げた。
「聞いたか」
 忠興からそう云はれて、彼女は又、涸れはてゝゐる涙を顫きこぼした。・・・・今朝、鏡の前に
あつた清麗も艶美も、嘘のものだつたやうに彼女の面から消えていた。
「そなたに罪があるではないが、今日かぎり側には置かれぬ。おそらく、世の憎しみは、そな
たにも降りかゝらう。大逆人の血すじよ、光秀の娘よと、あらゆる辱しめと、怒りにまかす仕
返しの手がつき纏ふであらう。・・・・別離は、慈悲と思へ。・・・・伽羅奢、山へ逃げろ、三戸野の
山奥へでも落ちて行け」
「・・・・」
 伽羅奢は、突然、大きく咽んで泣きはじめた。ふたりの子を生んだ母とはいへ、漸く二十歳
なのである。深窓にあれば、まだほんの妙齢といふ年頃にすぎないのである。
 忠興は、彼女の咽び方が、餘りの激しいので、這入つて来た入口のふすまを閉めに戻つた。
そして、妻のそばに坐り直すと、
「よいか。人目につかぬ夜のうちがよからうぞ。郎薹には米田金八郎・可児小左衛門・岩成兵
助の三名を付人としてつかはす程にな。・・・・山の尼院へ」
 泣き涸れて、力なく顔を擡げると、彼女は、嗚咽を嚥みながら云った。
「和子さまは。・・・・與一郎様の御身は?・・・・。わたくしに、お預けさせていたゞけませうか」
 忠興は、默つて顔を振つたが、とたんに、その眼からぱら/\つと涙が散つた。
「逆臣の娘に、忠興が嫡子を、何で渡されようか。ならぬことだ・・・・。そなたは身一つだ。己
れの生命をこそ、愛しめ !」
「なりませぬか」
 唇を噛み直して、わなゝいた。・・・・凄愴な決心がその顔いろをさつと染めた。
「では・・・・では。・・・・死ぬしかございませぬ。和子さまが、わたくしの生命ですから」
「だまれッ !」
 忠興は、発狂したやうに呶鳴りつけた。聲と一つに起つてゐた。
「兵助っ。謹八郎っ。・・・・仕度はいゝか。奥方を・・・・いや伽羅奢をすぐ用意の山駕にうつせ」
 庭面で、付人の返事がした。伽羅奢も、今は取亂して、
「せめて、お城の内で、死なせてくださいませ」
 と、自身の懐剣をさぐつた。
 忠興は、それを奪り上げて、居たゝまれないように、廊下へ交した。彼女の供をして三戸野
山へ夜のうちに落ちやうとする付人達は、山仕度で庭の近くまで、その山駕を用意して來てゐ
たが凝然と、たゞ立ちつくしている。
「山へは行きません」
「行けつ」
「いやです」
 伽羅奢の聲音は、次第に強いものに變つて來た。忠興は、自分の愛が、彼女に履きちがへら
れたかと、残念そうに唇をふるはせた。
「・・・・参りません。おいひつけに反くには似てをりまするが」
 伽羅奢はもう泣いてゐなかつた。死ぬ刃も持たないので、それに悶掻かうともしなかつた。
黒髪をなでゝ、宵闇となつた室の中に、きちんと坐つてゐた。
「兵助、小左衛門。後ほどの事といたさう。いちど退つて、休息してをれ」
 と、庭の者を退けた。

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■松の丸殿御逝去

2020-12-06 10:33:09 | 展覧会

 「小倉細川藩」でご紹介しているように、寛永六年(1629)六月十九日、忠興の側室「松の丸」が死去した。筆頭家老・松井興長の室「古保」の生母である。
松の丸は名を「お藤」といった。父親は郡宗保である。ガラシャは死に臨んでこの「お藤」を継室にしないようにと遺言したと伝えられる。
現在吉川英治の「細川ガラシャ夫人」をご紹介しているが、このことについては触れられていない。

ガラシャが山深い味戸野(三戸野)で子を想い、良人を案じているなかで、忠興はお藤に「古保」を生ませている。
お藤を継室にしないようにというガラシャの想いは、嫉妬ともとれるし、忠興への当てつけのようにも思える。
ガラシャの芯の強さをうかがわせる逸話である。

 以前ある方から、三斎忠興の書状のコピーをお送りいただいた。
三斎が「お藤」に宛てた書状であった。お藤への、祝儀に小袖を贈られたことに対する礼と健康を歓ぶ、三斎の返書である。
忠興が三齋と名乗ったのは元和六年(1620)だから、約9年間の間のものであることが判る。
三齋は「中津城」に在り、お藤は小倉城の中の娘・古保の近くで生活していたものと思われる。
死の前、病に伏した松の丸をおもい、松井興長は義母が好きな季節外れの「楊梅=やまもも」や「野苺」を調達するのに奔走している。
「小倉細川藩」の奉行所「日帳」では、松の丸の死に対する三斎の情報はまったく窺い知れない。
松井興長は松の丸の墓石にするため丸い大きな石を探すのに又奔走することになる。

細川家の肥後入国後、松の丸のお墓は松井家の墓地、熊本市子飼町・松雲院に移されている。
そのご、八代の松井家墓地・春光寺に移されたものと思われるが、確認に至っていない。

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■細川小倉藩(423)寛永六年・日帳(七月朔日~三日)

2020-12-06 06:54:39 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)朔日~三日

         |       
         |     朔日  奥村少兵衛
         |
三斎ヘノ状    |一、江戸ゟ 三斎様へ被進之御文箱弐つ、大坂ゟ小早之御船頭中靏二左衛門尉持下候、大坂衆ゟ之状
         |  とも来候也、
大坂ヨリ十三端帆 |一、岐木與右衛門尉、大坂ゟ拾三端帆之帆柱つミ下申由ニ而、登城仕候事、
ノ帆柱下ル    |
         |                 (沢村吉重)
ねぶたの橋ノ修理 |一、ねぶたの橋繕ノ儀、御印帳ニ付、大学殿へ遣候ヘハ、留守之由にて置、戻候事、
江戸石積之船頭帰 |一、今度江戸へ、石積ニ被遣候御舟之御船頭吉田市左衛門・岐木九兵衛、只今江戸ゟ罷下候由にて、
着ス       |  登城被仕候事、
         |                                      (中山左次右衛門)
蔵子中津口ノ明屋 |一、田辺溝口手前之蔵子源蔵、中津口ニ、六間四方在之明屋敷を望候由にて、切帋を、さ二右衛門被
敷ヲ望ム     |  持上候、遣可被申由、申渡候事、
         |
松丸葬儀ニ彦山ノ |一、松丸様御葬礼ニ付而、彦山ノ山伏衆罷出候内、在隣坊霍乱仕出シ、様子ハ旨ニせきつめ、はき
山伏霍乱ス    |  もせす、くたりもせで難儀ニ及候処、まんきんたん拝領仕、給させ■候ヘハ、殊外得験申候而、
         |                                〃
         |  彦山へ罷帰候由、惣兵衛申候、御礼ニ登城可仕候へとも、病中之儀ニ而御座候間、惣兵衛相心得
         |  候てくれ候へ之由申ニ付、如此候、右ノ御薬取候而、被渡候陣は佐分利作左衛門・藤懸蔵人・田
         |  辺平助御番之時の儀にて候也、
三斎へ七夕ノ祝儀 |一、三斎様へ七夕之御帷子被進之御使者ニ、谷忠兵衛申渡候也、
ノ使者      |
忠利書状ノ覚書  |一、本庄太兵衛今晩下着、此便ニ 御書箱壱つ被下候、内ニ在之 御書数覚
         |         (浅山)(田中氏次)
         |  一、壱通ハ  修理・兵こニ被下、
         |               請取人
         |  一、同    佐藤将監内 今村二郎八(花押)
         |                 請取人  
         |  一、同    明石源左衛門内 三木甚左衛門(花押)
         |               請取人
         |  一、同    道家帯刀内 伊藤理介(花押)
         |   (延俊)
木下延俊書状   |一、木下右衛門尉様ゟ、御内恒川将監・山田蔵人へ被遣御状壱つ、同使ニ下ル、

         |
         |         (ママ)       
         |     二日  
         |
         |一、木下右衛門様ゟ同御内将監・蔵人方へ被遣御状、御飛脚二人申付遣、右両人ニ我々ゟもそへ状遣、
町細工師しやうか |一、町細工三谷半左衛門尉ゟ、神吉甚右衛門方へ上ヶ申御しゃうか入壱つ上置候、重而江戸へ上ヶ
入ヲ上グ     |  可申也、
忠利書状下ル   |一、岡田茂左衛門江戸ゟ罷下候便ニ 御書被下候、又貴田権内・高橋兵左衛門へ被遣 御■書箱壱つ、
         |  内ニ 三斎様へ被進之御状も在之由、口上にて申候事、

         |       
         |     三日  安東九兵衛
         |
江戸石積之船頭帰 |一、当春、江戸へ被遣候御石舟之御船頭中山太郎兵衛・鵜鷹久右衛門・三き清太夫、昨日爰元へ罷下
着ス       |  候由にて、登城被仕候也、
         |一、右同理、乃美十左衛門尉、
         |                     (ママ)
江戸へ回送中捨米 |一、江戸へ積廻申御米ノ内、大風ニ相、捨申候

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