細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より) 吉川英治
(三)
さすがに女ばかりの奥の丸にも、もう京都の空の煙煙りが、日本中を變革してゐる大事變だつ
た事が知れ渡つていた。
・・・・が、こゝでは。
逆臣とか、大悪人とか、光秀とかいふ聲は、ひそとも聞えない程、慎まれてゐた。
つい四年前に輿入したばかりの、若い美しい忠興夫人は、その明智家の二女であり、大逆人
の光秀のむすめである事を、お下婢の女童までが、知らぬはないからであつた。
「・・・・伽羅奢、伽羅奢」
忠興は、時分の居間から呼んでゐた。
局のはうと知つて、軈て、自分から足を運んで行つた。誰ひとり召使すら迎へないのである。
そして彼女の部屋を窺へば、そこにも侍女ひと侍いてゐなかつた。
「・・・・」
たゞ見る・・・・そこにひたと聲もなく泣き伏してゐる黒髪の人がある。
「伽羅奢・・・・・・。伽羅奢っ」
「・・・・はい」
漸くに、彼女は面を上げて、眼の前に、ぬっくと突立つてゐる良人の姿を見上げた。
「聞いたか」
忠興からそう云はれて、彼女は又、涸れはてゝゐる涙を顫きこぼした。・・・・今朝、鏡の前に
あつた清麗も艶美も、嘘のものだつたやうに彼女の面から消えていた。
「そなたに罪があるではないが、今日かぎり側には置かれぬ。おそらく、世の憎しみは、そな
たにも降りかゝらう。大逆人の血すじよ、光秀の娘よと、あらゆる辱しめと、怒りにまかす仕
返しの手がつき纏ふであらう。・・・・別離は、慈悲と思へ。・・・・伽羅奢、山へ逃げろ、三戸野の
山奥へでも落ちて行け」
「・・・・」
伽羅奢は、突然、大きく咽んで泣きはじめた。ふたりの子を生んだ母とはいへ、漸く二十歳
なのである。深窓にあれば、まだほんの妙齢といふ年頃にすぎないのである。
忠興は、彼女の咽び方が、餘りの激しいので、這入つて来た入口のふすまを閉めに戻つた。
そして、妻のそばに坐り直すと、
「よいか。人目につかぬ夜のうちがよからうぞ。郎薹には米田金八郎・可児小左衛門・岩成兵
助の三名を付人としてつかはす程にな。・・・・山の尼院へ」
泣き涸れて、力なく顔を擡げると、彼女は、嗚咽を嚥みながら云った。
「和子さまは。・・・・與一郎様の御身は?・・・・。わたくしに、お預けさせていたゞけませうか」
忠興は、默つて顔を振つたが、とたんに、その眼からぱら/\つと涙が散つた。
「逆臣の娘に、忠興が嫡子を、何で渡されようか。ならぬことだ・・・・。そなたは身一つだ。己
れの生命をこそ、愛しめ !」
「なりませぬか」
唇を噛み直して、わなゝいた。・・・・凄愴な決心がその顔いろをさつと染めた。
「では・・・・では。・・・・死ぬしかございませぬ。和子さまが、わたくしの生命ですから」
「だまれッ !」
忠興は、発狂したやうに呶鳴りつけた。聲と一つに起つてゐた。
「兵助っ。謹八郎っ。・・・・仕度はいゝか。奥方を・・・・いや伽羅奢をすぐ用意の山駕にうつせ」
庭面で、付人の返事がした。伽羅奢も、今は取亂して、
「せめて、お城の内で、死なせてくださいませ」
と、自身の懐剣をさぐつた。
忠興は、それを奪り上げて、居たゝまれないように、廊下へ交した。彼女の供をして三戸野
山へ夜のうちに落ちやうとする付人達は、山仕度で庭の近くまで、その山駕を用意して來てゐ
たが凝然と、たゞ立ちつくしている。
「山へは行きません」
「行けつ」
「いやです」
伽羅奢の聲音は、次第に強いものに變つて來た。忠興は、自分の愛が、彼女に履きちがへら
れたかと、残念そうに唇をふるはせた。
「・・・・参りません。おいひつけに反くには似てをりまするが」
伽羅奢はもう泣いてゐなかつた。死ぬ刃も持たないので、それに悶掻かうともしなかつた。
黒髪をなでゝ、宵闇となつた室の中に、きちんと坐つてゐた。
「兵助、小左衛門。後ほどの事といたさう。いちど退つて、休息してをれ」
と、庭の者を退けた。