津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(434)寛永六年・日帳(八月六日~九日)

2020-12-18 16:45:10 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)六日~九日

         |                
         |    六日  加来二郎兵衛   
         |
高瀬川ニテ子籠ノ |一、高瀬川にて、子籠ゟあゆ被召上候奉行ニ、御台所櫛野長三郎差遣候儀は、物を書不申ニ付、御鉄
鮎取立ノ奉行   |          〃
         |  炮衆ノ内にて、物を書申ものを一人可遣候間、申付置候へと、月行司ニ申付候也、
舟釘ノ用御印帳ニ |一、御舟用御釘、御印帳ニ書付、大学殿へ遣候処ニ、留守之由にて箱を置、罷帰申也、
記載ス      |
         |  (加藤)(金子)    (築城郡)(同郡)
郡奉行椎田湊両村 |一、新兵衛・喜左衛門尉被申候ハ、椎田・港両村当年日てりゆへ、少田畠いたミ申候間、御内検被仰
ニ日照ノ内検ヲ願 |  付候様ニと、御郡奉行衆ゟ被申越候、右両村少立毛悪敷候とて、御内検被仰付にてハ御座有間敷
郡奉行等開田ニ百 |  候、沢少兵衛・荒木五郎介・山田次右衛門定田を大分作申候、是をも御百生作分同前ニ御内検
姓同然ノ内検ノ要 |  被仰付候ハて不叶儀候、如何可有御座哉と被申候、又田川新開検地をも被仰付候様ニと、御郡奉 
田川郡奉行新開検 |  行衆度々被申候、是もいつれ成共可被遣由の由候、左候ハヽ、各両人ノ間ニ一人、田川へ御こし
地ヲ願フ 加藤新 |                    〃
兵衛田川郡椎田ヲ |  候て、さ候て、椎田へも被参、様子被見斗、可然様ニ可被申付由申渡候、新兵衛可参由被申候、
モ見分シ帰途自領 |  其次而ニ、もとり殿ニ、主知行之免を究申度由被申候、可然候由申渡候、
ノ免ヲ決メントス |

         |                
         |    七日  奥村少兵衛   
         |
三斎松丸ノ知行ニ |一、式ア少輔殿ゟ、山本源太夫を以被仰聞候ハ、松丸殿御知行之儀、 三斎様ハ不被成御構旨被 仰
関与セズ     |
         |  下候間、此方ゟ御代官被仰付候、先度御郡奉行衆へ、式ア所ゟ早田なとの儀被相改候へと申遣候
         |  へ共、御代官被 仰付儀ハ、各ゟ申遣候へと灯仰聞候間、得其意申候通、御返事申候事、随而
毛利領ニテノ隼落 |  ハ、今度中国にて隼を御とらせ被成儀申遣候処、中国ゟノ返事きこへさる返事ニ而御座候間、隼
シニ聞へザル返事 |  を取ニ遣可申哉、遣申間敷候哉、後刻両人ともニめしをたへ、そろい申候は、式ア殿へ左右を申
アリ 隼落シニ中 |  候へ、左候ハヽ、頼母殿・監物殿へも人を遣し、式ア所へ御寄候へと可申候間、惣談可仕由候
国ニ行ク是非を惣 |  間、是又得其意申候、兵庫めしたへニ罷下候間、登城次第御左右可申通、御返事申候事、
談セム      

         |                
         |    八日  安東九兵衛   
         |
宇佐郡ヨリ松茸上 |一、夜前、うさ郡ゟ松茸持来候、日岡加右衛門送り状一つ、山崎助右衛門・佐田太郎右衛門両人の送
ル        |  り状一つ、次夫ニ而持来也、
仁保慰英門ノ鍵ノ |一、西魚町浜手ノ御門ノかき仁保少普請仕ニ付、かり申度由、被申候間、かし申候、
借用書      |                         頓而明次第返シ可申候、
         |                             仁保太兵衛(花押)
         |                              (慰英)

         |                
         |    九日  加来二郎兵衛   
         |
友田二郎兵衛国東 |一、友田二郎兵衛、国東郡御内検地日仰付候処ニ、少相煩ニ付、参候事ちと延引仕、めいわくの由、
郡検地延引願   |             〃
         |  被申越候、早々御養生候て可被参由、返事申候事、
         |           (紺屋)
捕ヘシ走女ノ弁明 |一、十六ニ成申女壱人、こんや町口へ走出申候を、御番ノ八田部惣左衛門尉とらへ来候、様子相尋候
         |                       (西嶋村、三根郡)
         |  処、彼女申分ハ、私男我等を女房可仕と申、元来肥前之西嶋之ものにて御座候、西嶋ゟ爰元へ、去月
         |  廿鉢日ニつれ参、ひかし小倉新左衛門尉と申ものゝ所ニおき、男ハ上方へ罷上申候、男爰元へ可
         |  罷帰も不存、其上在所ニ親兄弟居申候ニ付、罷帰度存、罷出申候由申候、則御家老衆へつれさせ
         |  遣、其段申候へと申付候処、御町奉行衆へ人ヲ御付候而被遣候由、右ノ惣左衛門尉申候也、
         |                    (長門大津郡)
星出某中風ニ付湯 |一、■星出市左衛門尉中風相煩、快気不仕付、俵山へ湯治仕度由申候ニ付、請人御座候而可被遣由、
治願       |  切りかミにて式ア殿へ申入候、又星出長五郎も市左衛門もをめしつれ、参度由申候、長五郎は小
         |  性頭衆へ申候而、式ア殿へ同道にて參被申候て、可被参由、申渡候事、
       

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(十一・了)

2020-12-18 09:30:49 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (十一)               注:この項から伽羅奢がガラシヤ表記に代わっている。

 關ヶ原へ臨む前に、三成の策謀は、第一に思かくと喰ひ違つた。
 細川ガラシャの死は、三成に、さういふ姑息な手段が、真の武士の内室に對しては、何の效
もない事を教へた。
 三成も愚將ではない。
「かへつて、これは敵の陣營にある良人の意思を鞏固にする惧れがある」
 さう覺つて、次々の大名の室へ、同じ手段で臨まうとした最初の考へを斷念してしまつた。
 ガラシヤは、當然他にも起るはずだつた、多くの悲劇を、身一つで堰き止めた。幾多の犠牲
を救ひあげて、今は、もつとも容易い死へ赴いた。
 關ヶ原の戰後、功によつて細川忠興は、豊前小倉の太守に封ぜられたが、家康が基督教に對
して彈壓政治を布いた後も、その小倉では、なほ幾つも禮拝堂が黙認されてゐた。
 そこの小さな教會の一つでは、毎年、七月十六日の夕方から、美しい花と灯とを聖壇に飾つ
て、ガラシヤ祭を催した。
 美劍を吊るし、胸に十字架をかけた太守が、その夕方にはきつと、祭壇の前に現はれた。そ
して付近の汚ない老媼や、潮臭い漁師の子等が、菓子をもらふため、太守のまはりに蠅のやう
にたかつて來ても、太守はうるさいとも無禮だとも咎めなかつた。しして祈禱がすむと、默々
と、供の列や塗駕籠の待つてゐる海邊の松並木まで、在りし日の人を胸に想ひながら歩いて歸
ることも極つてゐた。
・・・・何ともいへない淋しさと、追憶の美しさに耽りながら。

 

                    (了)

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■花鳥諷詠・駄句六句

2020-12-18 08:16:11 | 俳句

              老いが背に四温の陽ざしのめぐみかな

              草野辺に天道虫の紋所

              水仙の好みに向いて咲いており

              吹き溜まりうち重なりし散紅葉

              木洩れ陽の許の野花の名は不知

              草紅葉散歩の道に際立ちて

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