津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(427)寛永六年・日帳(七月十三日~十六日)

2020-12-11 14:11:07 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)十三日~十六日

         |       
         |     十三日  加来二郎兵衛
         |
葉茶ヲ泰勝院へ進 |一、玄徳ニ葉茶弐升ほと持せ、玄徳を泰勝院へ遣候、但、玄徳を遣候へと、隠岐さしつにて遣被申
ム        |  候也
         |                      (痛)
牧興相法事ニ欠席 |一、左馬允殿ゟ、使者を以被仰聞候ハ、此中頭通気ニ御座候而致迷惑候、左候ヘハ、明日泰勝院へ罷
届        |  出候事成間敷と存候間、其心得仕候へと被仰候間、随分可有御養生之由、御返事申候也、
         |            井上                                                                                                          (米田是季)
松井興長忌中ニ付 |一、長岡式ア少輔殿ゟ、山中弥次右衛門を以被仰聞候は、今日泰勝院殿へ見廻可申と存候而、監物殿
泰勝院之見分ヲ止 |           〃〃
ム        |  へ談合仕候ヘハ、御忌中ニ而明日茂御寺へ御出無之内、今日御見廻候儀は無用之由、被仰候ニ
         |  付、参不申候間、弥二右衛門を遣候而、様子を見せ申候ヘハ、はや大形仕廻申候間、気遣申まし
         |  きのよし、桑原主殿被申越候間、左様ニ御心得あるへく候由、被仰聞候、得其意申通、御返事候
         |  也、拙者なとも追付御寺見廻申候通申候也、
江戸ヨリ忠利書状 |一、江戸ヨリ御鉄炮衆弐人、寺本八左衛門与有永少九郎・同与川上加右衛門罷下候、持下候、御書之
ノ覚       |  覚
         |             式ア少輔内、慥ニ請取申候  
         |  一、御こほ殿へ御書壱通、         松原二郎兵衛(花押)
         |     (ママ)
         |  一、三斎へ御文箱壱つ、
         |           (昭光)
         |  一、御書壱つ 槇嶋云庵・一色木工へ被成遣、
         |            (有吉英貴)
         |  一、同壱つ 
監物殿・頼母殿へ被■成遣、御書受取人菅沼三左衛門(花押)
         |        (浅山)(田中氏次)
         |  一、同壱つ 修理・兵庫ニ被成下、

         |
         |          (ママ)       
         |     十四日  
         |
奉行役人等泰勝院 |一、御奉行衆幷松御丸中、泰勝院へ被相詰、それゟハ登城不仕候事、
法事ニ詰ム    |
         |                    (可政)
加々山可政盆ノ祝 |一、盆之御祝 三斎様へ被進之ニ付、加々山主馬持参被仕候処、御ゆわひ被成候、則 御書被進之
儀ニ三斎ニ使ス  |               又我等ゟも心得候て可申上
         |  間、便儀次第江戸へ上可申候〇旨被成 御意候通、 主馬被申候事、

         |       
         |     十五日  奥村少兵衛
         |
         |
         |一、三渕藤十郎殿被仰候ハ、中川佐左衛門尉内儀煩、又差発候、土々呂木以真又被参候様ニと存候
         |  処ニ、一昨日ゟ在郷ヘ被参居候、明日ゟ御番にて候、在郷ゟ彼地へ直ニ被参候様ニ可申遣候間、
         |                             
         |  其心得仕候へと被仰聞候間、得其意申候、御番之儀ハ余人を申付候間、直ニ被参候様ニ、可被仰
         |  遣候通申候事、
筑紫重門姉死ス  |一、弓削與次右衛門尉登城にて被申候ハ、筑紫左近姉筑前ニ居申候、今月五日ニ病死仕候、就其、爰
         |                                   (赤司、御井郡)
         |  元ニ被居候母ノ方迄、帆足少左衛門尉と申者ゟ書状差越候、但、筑前ノ内赤地と申所へ遣候を、
         |  赤地ゟ弓削太郎右衛門知行所迄昨夜持来候由にて、夜通ニ持せ、差越候間、懸御目候由被申候、
         |  是ハ御年寄衆へ可被懸御目由、申渡候事、但、今月五日ニ相果候由とハ使ノ口上ノ由也、
         |                               〃

         |       
         |     十六日  安東九兵衛
         |
         |                          (咳)
沢村吉重法事ニ欠 |一、大学殿ゟ、七左衛門を以被仰越候ハ、昨日之御法事ニかい気ををさへ、罷出候ヘハ、いよ/\
席届       |  風を引、さん/\にて罷居申候、かやうニ候ハヽ、明日ノ御法事ニも出申間敷由也、次ニ、上林
上り人      |  甚介与ニ目をかけ申もの御座候、御門番なとも入申様ニ承候、左候ハヽ、彼者を上り人ニ申付候
         |  様ニと候て、具ニ被仰越候、就其、上林甚介ゟ大学殿への書状も相添、御越候返事ニ、様子具ニ
         |  承届候、兵庫儀ハめしたべニ被罷下候、登城被仕次第、可申談候由申候而、甚介状ハ七左衛門ニ
         |  渡返候事、
囮雀ノ餌稲ノ札ヲ |一、しゞめきおとりノ餌いねノ札拾枚書調、河井権丞ニ相渡候事、
鷹匠ニ渡ス    |

 

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■小倉細川藩の葡萄酒は寛永九年まで作られていた・・

2020-12-11 11:27:17 | 新聞

         

 熊本日々新聞の12月10日朝刊に掲載された記事である。
熊本大学永青文庫センターで新たな資料が発見され、発表された。
私は「小倉細川藩」の資料は、何度も読み直したがこの事実を知るには至らなかったのは、言い訳がましいが「福岡県史・近世資料編‐細川小倉藩」に於いては、寛永八年の十一月いっぱいで日帳の記録の所載が終わっているからである。
肥後入国後の上田太郎右衛門は合志で育林の仕事に携わっているようだから、葡萄酒とは縁が切れたことが伺える。

 

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(六)

2020-12-11 07:10:05 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (六)

 後に思へば、あの動亂のなかに、彼女の生命が保たれたのは、奇跡のやうな救ひであつた。
 やはり光秀の娘を妻としていた織田信澄は、信長の子でありながら、遂に疑はれて殺された。
 そのほか、叔父の係類、母方の血すじ縁類の一族、殆どみな謀殺され盡してゐたのである。
 無事に、良人のそばへ歸つて、忠興の顔を見たとたん、伽羅奢は、
「わが夫の強い愛であつた」
 と、山へ追はれた時の良人の怖い顔を、今は神の姿であつたやうに思ひ出すのであつた。
 忠興は口に出して云ふ。
「まつたく、わしの愛が、そなたを救つたのだ。もしあの時、そなたが速まつて死になどして
ゐたら、わしも無性に斬り死にばかり急いで、可惜、碌な功もたてず、あの折の戦場に屍を
横たへてゐたらう・・・・。もし、そうであつたら、この和子は、どうなつて居たやら」
 と、もう見違へるほど成人した嫡男の與一郎のつむりをなでた。
 與一郎(忠隆)の次に、次男の與五郎(興秋)があつた。それから又、三男の内記(忠利)が生れ、
愛らしい女の子もその下にふたりできた。
 いつか細川忠興は三十だいの男ざかりとなり、伽羅奢も同い年の三十路、そして五人の子の
母とはなつた。
 けれど、彼女の天のなせる麗質は、すこしも變らないほどだつた。むしろ貴族的な美しさと、
年たつ程、研かれてくる教養美とが、以前とはちがつた光をもつて、化粧や黒髪のほかに燦い
てきた。
 門地の高さも、以前とは雲泥の差ほどちがつて來た。勝龍寺城のころは、わづか二萬石ほど
の小大名であつたのが、今では舅の細川藤孝は、丹後の田邊城にゐて、あの地方に於ける重鎮
であつた。又、良人の忠興は、數度の軍功に、秀吉から引立てられて、豊後杵築の大禄に封ぜ
られてゐる。・・・・そして大坂での邸は、玉造にあつた。宏莊華麗なことは、豊太閤の金城をめ
ぐる群星建築に一つ、云ふまでもない。
 ところが。
 その玉造の邸宅の園には、桃山造りの殿樓にふさはしい白孔雀なども飼育されていたが、同
じ園内に、一棟の長屋が建てられて、そこには汚い街の子や嬰兒がたくさん養はれていた。
「何じや。あのうるさい嬰兒の泣き聲は」
 或る折。
 忠興が長い戦場生活から歸つて、久しぶりの寛ぎに、庭園の花壇を見てあるいてゐると、そ
のふさはしくない長屋棟や、そこから洩れる聲が耳についたので、忽ち、不機嫌な眉をひそめ
て、居合せた於霜といふ奥仕への侍女にたづねた。
 この於霜は、三戸野の山中にまる二年、夫人が幽居してゐた頃から、側近く召使つて來たあ
の炭焼の小娘であつたが、今はもう見違へるばかりになつていた。
「お目障りになりましたか」
 於霜は忠興の眉を、畏る/\見あげながら答えた。
「あのやうな聲が洩れぬやうに、又、長屋なども御眼にふれぬやう、庭師を入れて、樹々の陰
につゝませるやうと、奥方さまも仰せられていらつしやいましたが、御歸還の間にあひませい
で、お目に障り、申しわけがございませぬ」
「樹でつゝむ。誰がさう叱つてゐる。わしが訊くのは、あれは何だといふ事だ。・・・・何だあれ
は! 」
「はい」
「云ひ難いことか」
「左様なものではございませぬ。奥方さまのお慈愛から、市中の捨兒や親のない孤兒を拾うて、
養つてやる御長屋でござります」
「何。・・・・捨兒や孤兒をひろひ寄せてをると」
「合戦のあるたびに、どれほど捨兒や親のない古閑、町にふえるかわかりませぬ」
「限りのないことを。・・・・彼女の物ずきにも困つたものだ。夫人を呼べ」
 於霜がためらつてゐると、忠興は舌打して、
「よいっ。わしが参る」
 と、自身で戻った。

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