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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(433)寛永六年・日帳(八月朔日~五日)

2020-12-17 15:59:14 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)朔日~六日

         |
         |                           

         |     朔日  
         |(ママ)
         |一、

         |                
         |     二日  奥村少兵衛     前回の最末尾記事と重複あり
         |
花畠ノ葡萄ヲ奥へ |一、小堀長左衛門尉登城にて申候は、御花畠ニ有之ぶどううれ申候間、壱籠候而参候、如何可仕やの
上グ       |  由申候、をくへ上ヶ候へ之由、申渡候也、
         |一、江戸ゟ、志水伯耆者もの参候ニ、小谷忠二郎与之御長柄衆忠七と申者壱人被成御添、御下候、夜
         |  前九つ時分ニ参着候也、
忠利書状ノ覚   |  一、我等共へ成被下 御書壱通、
         |  一、三齋様へ被進之御文箱壱つ、
         |     (秀元)  (益田元祥)  (宍道元兼)    (本山、長門厚狭郡)
毛利秀元領内ニテ |  一、毛利甲斐守殿ゟ益玄蕃・完主殿所へ、 殿様ゟ元山にて隼御おとし被成候様ニとの御状之由にて
ノ隼落シを諾ス  |    壱通参候、
         |    
         |              (立政)
         |一、かわや九郎左衛門尉へ道家左近右衛門・山本三四郎ゟノ状壱通、則九郎左衛門ニ渡、判形させ置
         |  候へ共、去月之帳ニ判させ置候ニ付而、又此帳ニ如此書申候也、
         |    (辰珍)                                (志水元五)
         |一、津川四郎右衛門尉殿ゟ間太郎介所へしふかミ包壱つ参候、是ハ伯耆もの直ニ渡申由、御長柄ノも
         |  の申候也、
         |     (仁)
         |一、入江二兵衛大坂ゟかり被下候舟之運賃幷人数之儀、寺嶋所ゟ来候状、中神與兵衛二相渡、但、使
         |  ハ古庄次左衛門也、

         |                 
         |     三日  安東九兵衛
         |
         |  (相定)           (相次)
牧相定父ノ病気見 |一、牧猪助登城にいぇ申候は、私おや五助、以外相煩申候由申来候、少之間参候而、見廻申度被申候
廻願       |  間、被参候へ之由、申渡候也、
家老惣奉行等松井 |一、御家老衆ゟ、御談合相度事御座候間、両人ともニ参候へ之由、被仰下候而、両人ともニ式ア殿へ
興長邸ニテ終日談 |  終日罷有候事、
合ス       |

         |                 
         |     四日  奥村少兵衛
         |
         |
家老等惣談ニテ定 |一、黒田次左衛門下女弐人、六月十八日ニ走、高月村ニ而とらへ申候、御家老衆惣談之上ニ而、誅伐
リ下女ヲ誅伐ニ決 |  ニ昨日相極申候事、                     収納棚の事
ス  誅伐ノ書物 |  右ノ女之儀ニ付而、書物ニ御家老衆幷我々裏判仕候を此方へ取置、万書物之段ニ入置申候也、
ニ裏判万書物ノ段 |
病気見廻願    |一、岩田新右衛門登城にて被申候ハ、私あね蓑田甚丞知行所ニ居申候、以外煩申由、申来候間、見
         |  廻ニ参度由、被申候間、跡ノ御番明不申候様ニ被仕、御家老衆へ被申理、被参候へと申渡候也、
国東郡検地奉行ノ |一、国東郡新地・永荒・川成・開御検地御奉行ニ、大塚忠兵衛・友田二郎兵衛申渡、次郎兵衛方へ之
任命       |  状ハ、多田十太夫所へ遣候也、
大阪上リノ米舟破 |一、大坂上りの御米舟、明石灘にて破損仕候付而之書物、又江戸廻之御米舟御米すて申候書物、鏡善
損ノ書物  江戸 |  右衛門ニ相渡候也、
廻米捨米ノ書物  |

         |                 
         |     五日  安東九兵衛
         |
野牛之許可  |一、岩田喜右衛門登城ニ而申候ハ、今日明日は天気能可有御座由、御船頭衆申候間、野牛をころし
         |       (ママ)
         |  申候由申候、念を足立與兵衛と申合、ころし候へ之由、申渡也、
         |   (是門)2代是政弟・藤十郎、寛永六年五月二日知行召し上げ
米田是門家屋敷ノ |一、米田與右衛門殿ゟ、吉田縫殿を以被仰越候ハ、家屋敷相渡申度候間、請取候物申付候様ニと被仰
返上ヲ申入ル   |  候間、得其意申候、請取可申通申候事、
         |  御鉄炮衆   歩ノ御小性 
畳ノ荒苧購入奉行 |一、河口加右衛門・〇香山清兵衛、広嶋へあら苧かい遣申候処ニ、今日罷帰申候、苧も調参候由、申
広島ヨリ帰着ス  |  候也、
木練柿      |一、小堀長左衛門尉、木練柿時分能候由にて、手桶壱つ持参申候、奥方へ払可被申由、申渡候、又な
棗ヲ干サシム   |                            ノミ
葡萄ハ実植ニ及バ |  つめもうれ候由にて持来候、干て置候へと申渡候、又ぶとう少御座候、是ハ上林甚介ミうへニ可
ズ挿木ヲ可トス  |  仕候間うけ取可申被申候、如何渡可申哉と申候、此方ゟ申候ハ、ぶどうハミうへニおよはす
         |  候、かつらをさして能候ニ、実うへと候候はかつてん不参由申候事
         |  〃                〃

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■メモ「NHK・ネーミングバラエティーから超難字」

2020-12-17 07:13:31 | memo

 先のNHKのネーミングバラエティーでやっていた「難解名字」をメモっていたが、物忘れが激しい爺様は、もう半分以上忘れていた。メモ紙からこちらに転記してみた。

   (1)五六 (2) (3)薬袋 (4)小鳥遊 (5)四月一日 (6)貴家 (7)毛受 (8)四十物

(1)将棋に関係している。盤面の五・六に「歩」を進めるため。福岡に多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふのぼり(歩登り)
(2)令儀に於ける役職名から、さう(そう)官→さかん→さっかと変化、山口県宇部市に多い・・・・・・・・・さつか
(3)袋の中は見ない(名薬だからだろうか、よく記憶していない)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・みない
(4)小鳥が遊ぶところにはいないもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・たかなし(鷹なし)
(5)これは知ってましたね。季節もの、この時期になると行う事。着物から・・・   ・・・・・・・・・・・・・わたぬき(綿ぬき)
(6)表札を見るとすごいお宅と思わせる??・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さすが
(7)なぜこう読むのかはよく覚えていませんが、小鳥に関係していたかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・めんじょう
(8)家業に関係すること、四十品あったことから又、始終食べられることから ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あいもの

           森岡 浩 森岡浩氏の まいどなニュース

 

 

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■吉川英治著・日本名婦傳より「細川ガラシャ夫人」(十)

2020-12-17 07:01:14 | 書籍・読書

     細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より)   吉川英治

            (十)

 ・・・・わしの眼の見えるところではするな!
 忠興の無意識に云つたことばが、それから數年の後、識をなして怖ろしい豫言となつてしま
つた。
 それは、慶長五年の七月だつた。
 太閤は世を去つて、時代は又、大きな轉換を兆してゐた。
 石田治部少輔三成が、上杉景勝と、東西から呼應して、家康を討たうと計つた事から、關ヶ
原の亂は、休息に醸されてゐた。
 細川忠興は、三男の忠利を、江戸に質子とし、次男興秋と、嫡男の忠隆をつれて、家康の陣
に加はり、宇都宮に出陣してゐた。
 その留守のうちの出来事である。
 玉造の細川家の邸へ、石田三成からの使が立つた。・・・・表方で、留守居の士と、その使者と
が、何か應答してゐる口上を、奥仕への於霜は、立ち聞きして、色を失つた。
「何事だ。・・・・・・於霜どの」
 大臺所で、小笠原少齋に會つた。彼女の顔いろと慌しさに、呼びとめられたのである。
 忠興は、出陣の際、蟲が知らせたか、老功の將を留守にのこして行つた。・・・・小笠原少齋・
稲富伊賀・河北石見の三人であつた。
「たいへんです。石田方から、奥方様を、人質にと、迎へ取りに参りました」
 少齋も聞いて、愕然と、
「さては、來たか」
と、つぶやいた。
 あり得る事とは思つてゐたが、豫想外に早かつた。怖らく他の大名のどこよりも、真つ先に、
細川家へ來たものとみえる。
 在府中の諸侯の留守邸には、他家にも多くの妻子が殘されてゐる。三成は、東軍の徳川へ火
ぶたを切る先に、大坂表にある大名の妻子を、自分の手に、質として収めてしまはうと計つた
のである。・・・・この策がもし完全に遂行されたら、東軍の内部には、大きな動揺が起るものと、
家康も、三成の旗舉を知ると同時に、第一に恐れた策であつた。
「三成ともあらうお人が、さても愚なすゝめを」
 と、伽羅奢夫人は、於霜から使者の見えたのを聞いて、微笑んだ。
 於霜は、夫人の落着いた面を見まもりながら、
「では、大坂城へは、おはひりになられませぬか」
 と訊ねた。
「そなた迄が、愚なことを問ふものよ。日頃、わが良人には、三成とは、お心も合ず、又、そ
の良人やわが子は今、三成の敵とする徳川殿に從いて、上杉攻めの軍旅におはすものを、何で
この身が、大阪城へ質として足を運ばうぞ。・・・・三成の使者は、生命惜くばと威嚇してをるで
あらうが」
 彼女の想像どほり、使者は口を極めて、夫人を邸の外へ拉して行かうと努めた。
 しかし彼女は、きゝ入れなかつた。その第一の交渉が來たのは、七月十二日の事で、それか
ら十三日・十四日、十五、十六日と、連日、いろ/\な手段で夫人を説伏に來たが、伽羅奢の
答へには、すこしも變化がなかつた。
「さらば、武力にかけて、お連れ申すぞ」
 と、交渉の手斷れとなつたのは、十六日の夕方に迫つて・・・・これが最後と云つて來た使者が、
門を出ると、途端であつた。
 三成の軍は、もう鐵桶の如く、細川家をとり巻いて、鬨の聲をあげ初めた。
 小笠原少齋・稲富伊賀・河北岩見の三將は、それ/\手分けして、裏表の門を固め、
「ござんなれ」
 と、一戰に備へたが、稲富伊賀が變心して、一方の門を敵手に委ねたので、三成の兵は、怒
濤のやうに門内になだれこんで來た。
「すはや。・・・・むゝ、殘念」
 岩見と少齋は、大薙刀に血しほを塗つて、夫人の坐所へ、馳けこんで來た。
 そして、交々、
「もはや、敵も間近う踏み入つて候ぞ」
「御最後のおしたくを成さらへ候へ」
 と、叫んだ。その聲は、しやがれ果てゝ泣くとも怒るともつかない顫へを帯びてゐた。
 それにひきかえて、夫人の坐所からは、
「いつなと、心に懸る事もない、・・・・それにあるは、岩見か少齋か、はや介錯をしてたまはれ」
 と、ふだんと少しも變らない聲が洩れた。少齋は、はつと、それへ足を踏み入れかけたが、
「御坐の間に入りては、恐れ多うござる。敷居の間近まで、お身を御移し下さいまし」
 と立ち竦んだ。
 夫人はいつの間にか純白な絹の衣に着更へてゐた。胸に、黄金の十字架をかけてゐた。たつ
た今、庭園で狂はしく啼いてゐた白孔雀の姿を、少齋はそのまゝ想ひ出してゐた。
「・・・・いざ」
 伽羅奢は、自分の手で、黒髪をあげて、瞑目したが、ふと、
「於霜は、もう去んだであろうの。・・・・良人の叔母御さまにも、忠隆の嫁も」
 と、もう裏手から先に落して、四邊にみえない人々の身を案じ顔につぶやいた。
「はや、どなたの御姿も、見え參らしませぬ」
 少齋が答へると、白い顎をこゝろもち落して
「安心しました。・・・・噫!」
 美しい眸が、一瞬、星のやうに、上を仰いでみひらかれた刹那、その真白い着物の胸からパツ
と緋牡丹のやうな血しほがほとばしつた。少齋の薙刀は、彼女の胸をつき通してゐたのである。

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