月曜日から本格的に寒さがやってくるようですが、私はすでにキャッチしています。
50年程前に交通事故を起こし、右上腕部を29針縫いましたが、寒くなるとこれがかゆくなるのです。
左ひざが痛み、心臓も必ず痛くなります。ニトロは離せなくなりました。齢を重ねると足の冷えがひどくて、現在暖房は入れていないものの、60㎝角の電熱マットを敷いているという有様です。
今日は日中14・5度、来週いっぱいは7・8度(最低は3・4度)といいますからいよいよ本格的です。
冬の真っただ中1月19日生まれで、すごく寒い日だったそうですが、どうも冬はいけません。
日帳(寛永六年七月)十七日~十八日
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| (ママ)
| 十七日
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秀林院ノ法事 |一、於秀林院、今朝御法事御座候事、
忠利ヨリ三斎こほ |一、三斎様へ、為御飛脚、田代又助御小人壱人被進之候、但、中津へ直ニ参、今朝爰元へ着、我等
鍋などへ書状 |
| 共ニ 御書被成下候御文箱内ニ、 御こほ様へ御書壱つ・於なへ殿へも壱つ・吉田縫殿へ之御書
| 壱つ入参候、右之御飛脚、江戸を当月七日ニ罷出候由也、
| 慥ニ請取申候、
| 一、御こほ様へ被成遣 御書 請取人 式ア内牧半十郎(花押)
| 一、御なへ様へ被成遣 御書 請取人 遠藤吉右衛門〇(黒印)
| 一、私ニ被成下 御書 慥ニ請取、致頂戴候 吉田縫殿助(花押)
金津又十郎法事ニ |一、金津又十郎、粟野伝介を以被申候ハ、今朝之御法事ニ参候ハて不叶儀と存、三日かけニ参候へ
病気届幷入湯願 | 共、煩然々無御座ニ付而、今朝御寺へも不罷出候、明日ハ早々罷帰と存候、少よく御座候ハ
| (豊後大分郡)
| ヽ、別苻之湯ニ入申度存候由候、可然候由申候事、
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採銅所口屋番病死 |一、春木金太夫所ゟ申越候ハ、採銅所御口屋番坂口吉右衛門尉と申者、当春ゟ愛煩、一昨十五日ニ相果
跡式ノ伺 | 候由被申候、吉右衛門せかれ三十ほとニ成候もの御座候、跡式彼者ニ被 仰付にて可有御座哉と
| 被申候、此儀ハ下にて不相成候、立 御耳候ハねハ、埒明候儀不成由、返事申候事、
長柄ノ飛脚ニ早飛 |一、明日、江戸へ差上候御飛脚、御長柄衆内喜右衛門・武兵衛、神戸喜平次与ノ由、小頭善兵衛申候
脚並ノ遣銀 | 也、早飛脚なみノ遣銀片道分渡遣也、
切米取ノ鉄炮足軽 |一、御切米取ノ御鉄炮衆百七十八人之外ニ、八月朔日ゟ三十人御切米ニ取ニ申付候、江戸ゟ弐十人、
百七十八人他ニ三 | 九月九日之呉服を持せ、差上候へと、被仰下ニ付、如此申付候事、
十人ヲ切米取トス |
| (野中)
|一、中山左々衛門女房衆煩ニ付而、作庵を遣候様ニと、三渕藤十郎殿ゟ承候間、則申付、遣候、御小
| (荷駄)
| にたニ乗せ候て可遣通、上田忠左衛門へ申渡候也、
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| 十八日 加来二郎兵衛
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江戸へノ飛脚ニ渡 |一、今日江戸へ差上候御飛脚、御長柄喜右衛門・武兵衛、両人ニ相渡遣候物数之覚
セシ物数之覚 | 一、三斎様ゟ之 御返書、大しふかミつゝミ壱つ、
| (長元)
| 一、小笠原備前殿ゟ長キ文箱ノ様成物壱つ・つねノ文箱壱つ、又四かく成物壱つ、的大小参つを壱
| つニ包、御上候、
| (沢村大学) (国遠)
| 一、大学殿ゟ言上ノ文箱壱つ、又、治ア・道服倫への状壱つ、
| 〃
豊後横目ノ返書 | 一、我々言上ノ文箱壱つ、内ニ豊後御横目御両人ゟ之御返書弐つ、御金山衆ゟ壱つ、一色木工・槙
| (昭光) (成政) (長沢顕長室、沼田清延女)
| 嶋云庵ゟ坂崎清左衛門へ当言上壱つ、いよ殿ゟ之言上壱つ、又 三斎様ゟ盆之御祝儀之御返書
| 壱つ入申候也、
| (松井康之室、沼田光長女)
| 一、式ア殿ゟ自徳院殿ゟ被進之御文箱壱つ、
| 〃
| 一、方々ゟの状共一からけ、
台所人曲事ニヨリ |一、御台所人上林七太夫儀、曲事候て籠者被仰付候間、妻子共しめ置候様ニと浦上瀬兵衛所ゟ申
入牢 妻子ヲし | (財津)
め置カシム | 来候ニ付、財津惣兵衛ニ惣左与ノ儀候間、小頭被申付、しめ置可被申由、申渡候、
細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より) 吉川英治
(七)
「伽羅奢。あんな汚い長屋は取拂へ」
忠興は、妻を室へ呼んで、云ひ渡した。
同い年の良人と夫人とを、かうして見くらべると、良人のはうが、多分に若氣であつた。
伽羅奢は、にこと笑つて、
「お氣に入りませぬか」と、云つた。
それには答へず、顔つきで云つて、
「道樂もほどにいたすがよい。・・・・鼓を習ふとか、香技を樂しむとか、小舞をするとかいふな
らべつな事。物ずきにも程がある」
「何で物ずきでございませう。世にあはれな子たちを養つてとらせる事が」
「その數が、天下にどれ程あると思ふ。どうなるか、あれしきの長屋建に容れたところで」
「でも、せめて縁ある子だけでも」
「小愛といふものだ。眼に見える範囲しか愛せない。それも、愛の遊び事といふ程度の・・・・」
「でも、小舞や鼓を弄ぶよりは」
「いや、ちがふ ! そのはうが良人がうれしいのだ。考へてみい、血なまぐさい戦場に、一年、
半年と長陣して、やれ邸へ歸つて寛がうと思へば、捨兒の啼き聲など聞かされてたまらうか。
・・・・眼に和やかな舞でも見たい。美しい妻が見たい。理屈など聞きたくないのだつ」
伽羅奢は、翌日、長屋を取拂はせた。町の者へたくさんな布施をとらせて、その子たちの養
育をそれ/\頼んだ。
良人の氣の荒びてゐるのも無理はないと沁々察しられた。彼女は化粧につとめた。又、能役
者など招いて、笛の音や鼓の音もあるやうに心をつかつた。
けれど、忠興の短氣や癇癖は、生れつきのものであつた。武勇にかけては猶さうであるのだ。
十一歳に初陣して、牧の島の戦に、大人に劣らない振舞をしてゐる。十五歳には、河内の片岡
攻めに、城乗一番の槍を入れて、信長から感状をもらつてゐるほど剛毅な質であつた。
さうした良人の性質は、花聟の時から辨へてはゐたが、年たつにつれて、忠興のそれは甚し
くなつてきたやうに思はれる。
・・・・なぜか?
と、考へるまでもなく、戦場から戦場が、殆ど良人の半分の生活だつた。遠くは、海をこへ
て、朝鮮はめで戦ひに往つてゐるのであつた。
だから、その血腥い山野から歸つて來ると、
「いかにせば御心が和らぐか」
それのみが、伽羅奢の苦心であつた。・・・・でも猶、欣ばれるのであらうと豫期してした事が反
對になつたりすると、忽ち、
「取拂へつ。すぐに ! 目障りだ」
と、今日のやうな、戦場聲が、殿中を揺すり出すのだつた。