津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■12月10日・晴

2020-12-10 17:27:42 | 熊本

            

                       今日の散歩は御覧のような良い天気で汗ばむ陽気でした。
                 来週は本格的な寒気がやってくるようですが、風邪など召しませんように・・・・

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■家系図を楽しむ

2020-12-10 13:49:26 | 徒然

 私の先祖が細川家に仕えることになったのは、真木嶋玄蕃頭(雲庵または云庵)と、清田石見お二人があってのことである。
ご縁があってスカウトを受けて、元和九年(1623)閏八月、兄弟二人(初代庄左衛門と兄・長五郎)が豊前へ召し出された。
先祖附は次のように記している。

                   (前略)三斎様豊前ゟ江戸御上下被遊候時分ハくた松ニ御船
                   繋被成候 右市左衛門(初代の父)居宅濱邊ニ有之候を於御船被遊
                   御覧御尋被成候ニ就而は磯部浄雲と申者之忰居
                   宅之由清田石見殿・槇嶋雲庵方ゟ被達御耳候
                   處兼而被為 聞召及候由ニ而市左衛門宅へも両度被為
                   懸 御腰御膳等被召上候 御供之衆ニハ濱邊ニ假
                   屋を申付料理等差出申候由其節市左衛門親子三人共ニ
                   御前へ被召出御懇之御意共御座候 其後於豊前右
                   石見殿雲庵方両人ゟ申参り御意之由ニ而市左衛門子供
                   両人豊前へ御召寄御児小姓ニ被召出(以下略)

 最近、沼田家の系図を見ていたら、3代延之の娘・国が清田石見の嫡子主馬乗治に嫁いでいることを確認した。
石見の家系をたどってみると、主馬乗治の二男・元長は沼田家の分家(沼田本家4代・延将の末弟・延春を初代とする)の延春の養子に入っていた。
これには驚いてしまった。我が家の曾祖母は上田久兵衛の長女だが、生母は延春流10代・沼田九八郎の娘である。
「奇跡だ、私には清田家が流れている」と思いよくよく調べていたら、延春流沼田家には途中で本家8代延久の弟・子之助が延春流沼田家6代・博延の養子となって居り、これで清田家の血は怪しくなってしまった。
しかし子之助の奥方が6代・博延の家女であれば、清田家の血は受け継がれていることになるが、これは確認のしようがない。

男系は先祖附に記されている通りであるが、女系をたどると思いがけない処に至ることが有る。
家系図をたどって数時間を楽しんだ。

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■細川小倉藩(426)寛永六年・日帳(七月十一日~十ニ日)

2020-12-10 08:39:26 | 展覧会

                      日帳(寛永六年七月)十一日~十二日

         |       
         |     十一日  奥村少兵衛
         |
         |                  加来久二郎
船頭等徒歩ニテ帰 |一、御船頭河村弥右衛門・河野惣右衛門〇江戸ゟかちを罷戻候ニ、被成 御書、今朝着仕由ニ而、持
着セルニ忠利書状 |  来候、江戸御奉行衆ゟ之書状ともゝ持而来候事、
等ヲ持参ス    |
         |                              (長沢顕長室、沼田清延女)
京都諸方ヘノ音信 |一、江戸御飛脚ニ参候御鉄炮衆乗せ上候御小早御船頭徳嶋八兵衛ニ、伊与殿ゟそうしゆゐん殿へ参
         |  候しふかミ包壱つ、我々ゟ京都へ之状、其外京衆へ之状とも、右御船頭ニ渡遣候也、
         |一、伊与殿ゟそうしゆいん殿へ被遣候しふかミ包、慥ニうけ取申候、大坂ニて、寺嶋主水方へ相渡可
         |       御船頭
船頭請取     |  申所如件、  徳嶋八兵衛〇(黒印、抹消)
         |(後筆)
         |「右之伊与殿ことつて物、寺嶋へ届、請取とり下候ニ付、けし」
有明黒ヲ江戸へ牽 |一、上田忠左衛門尉登城ニ而日申候は、有明黒江戸江被成御下候儀、来ル廿日日柄能御座候間、差上
ク用意      |  せ可申候、左様ニ御心得候而、付参候御鉄炮衆なとも内々可被仰付之由、被申候也、
鍛冶方細工物手間 |一、大学殿ゟ、七左衛門尉を以承候ハ、鍛冶方の細工物手間料、殊外高直ニ取申由、立 御耳申候、
料殊外高価    |  御まけ仕、上ヶ可申と申もの共ニ判をさせ、大帳壱冊差上申候間、得其意、重而可申付由也、但
値引ヲ承引スル者 |  又、今迄御仕事仕候かち共も只今御まけ可仕と申候ハヽ、仕せ可申由候、右之通 御意ニ而候
ノ大帳ヲ上グ   |  間、可江其意由也、則右之帳直段、源次・源介両人ニ相渡候也、
畳ノ中糸用荒苧ノ |一、歩之御小性香山清兵衛・続亀介与御鉄炮衆川口加右衛門、此両人■■広嶋へ御畳ノ糸ニ成申あら
購入代銀ノ持参ノ |  苧買ニ遣申奉行、今日出船仕候処、右清兵衛登城にて申候ハ、御鉄炮衆加右衛門申候ハ、今度荒
仕方の相談    |  苧買ニ参候御銀、爰元ニ而わけ候て、銘々ニ持加参候由申候、いかゝ加有御座候哉と申候、

         |       
         |     十二日  安東九兵衛
         |
         |   (吉重)
早舟川舟ノ修繕ノ |一、沢村大学殿ゟ被仰越は、式ア殿被成御借候御早舟、又大坂ニ在之川舟之繕作事之事、昨日被仰越
有様   三齋ノ |  候、川舟之儀は繕御作事仕候様可被仰付候、海之儀茂同前ニ存候、併 三斎様御代ニは、船頭如
仕方ト変ラズ   |  在二而損シたる御舟は船頭存候、大風大浪ニ相、船頭不及力候て損たる儀は 殿様ゟ繕被仰様
         |  ニ御座候間、可然様ニ、御作事奉行衆と御相談被成候而可被仰付之由、被仰越候、此方返事ニ、
松井興長ヘハ舟ノ |  一々承届候、例之儀は今以少茂不相替候、今度之御舟は、式ア少殿ゟ船頭・加子御乗せ候而候ニ
ミヲ貸ス     |                                         〃〃
         |  月、御舟斗被成御借候而損シ申たるニ付、御尋申入候、何茂御船頭・御作事奉行相談ノ上にて候
         |  間、則御作事可申付候、川舟ノ繕御作事もやかて可申上由、返事候也、
         |  (築城郡)
寒田牧ノ馬煩   |一、寒田牧之御馬煩候由、申来之由にて、上田忠左衛門登城ニ而被申候ニ付、沢少兵衛・荒木五郎助所
郡奉行へ治療方ヲ |                (伯  楽)
命ズ 上手ノ伯楽 |  へ書状遣候ハヽ、先にて上手のはくらく御聞合候而、養生仕候様ニ被仰付可然之由、申遣候也、
御印帳      |一、大学殿へ御印帳持遣候処、留守にて候付、帳を置、罷帰候事、
江戸ヨリ参物ノ覚 |一、江戸ゟ、御加子三人被成御戻候ニ、参物覚
         |   三斎様へ被進之 御書壱箱ニ、長サ一尺ほと・廻五寸廻ほとの雨かミ包ゆいそへ在之、
         |   三斎様御屋敷衆ゟ 中津御奉行衆ヘノ状壱箱、但、あなたノ御飛脚大坂迄持参候へ共、
         |                        舟無之ニ付、言伝、此方ノものニ持せ、先ゲ候由也、
         |  (長沢顕長室、沼田清延女)  (黒瀬)
         |   いよ殿へ 御書壱つ、九郎右衛門ニ渡ス
         |  一、我々両人ニも 御書壱つ被下、
         | 明ル朝参、
請取       |一、御書壱通、沢村大学へ被下を慥請取申候、 大学内若林長兵衛(花押)

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■三戸野→味戸野

2020-12-10 07:26:37 | 書籍・読書

 現在、吉川英治の「細川ガラシャ夫人」をご紹介している。
本の「題」のガラシャはともかく、文中では洗礼前であるにもかかわらず、伽羅奢と表記していることにはいささか違和感を感じる。
又、父・光秀の信長弑逆後忠興の手により山中に押し込められたその地を三戸野としている。
これは細川家史料にもとずくもので、今日では味土野と表記されるがその地が特定(?)されたのは昭和10年5月作家の森田草平によってであるとされる。
細川家史料では丹波もしくは丹後の三戸野としていたが、森田草平が調査をした際、宮津駅で大阪朝日新聞(京都日日新聞か)の記者に出合い、その人物から「与謝郡野間村に味戸野」という土地があり、女城・男城という地名が残っているということを聞き、役場にも問い合わせ「大点確証」を得たとしている。
以来この地はかっての与謝郡野間村、現在の「京丹後市大字弥栄町須川」であるとされている。
これは、そのことを知ったヘルマン・ホイヴィルスがその著「細川ガラシャ夫人」の「序」に記しており、同氏も三か月後同地を訪れたとしている。

昭和10年には「味土野」の地のことは吉川も承知していたことであろうから、あえて彼は「三戸野」としたのであろうことが伺える。

一方「味土野」の土地を特定した森田草平はさすがにその著「細川ガラシャ夫人」(昭和25年発行)では、味土野と表記している。しかし森田はこの著書の発刊まえの昭和24年にはなくなって居り、予定されていた「下編」は世に出ることはなかった。
そしてガラシャが赦されて味土野の地を離れて、約330年余忘れられていたこの地は、昭和の初期にガラシャの名前と共にその名を現したのである。

コメント (2)
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