細川ガラシャ夫人(日本名婦傳より) 吉川英治
(八)
・・・・が、伽羅奢夫人が、もつと困じ果てゝゐる事は、忠興の餘りに度の過ぎた強い愛情のあ
ふれであつた。
それも、戦場にあつて、留守勝ちなるせゐと、ひとつには、彼女の美貌の聞えがあまりに、
諸大名の廉中でも稀なものと稱はれすぎてゐるせゐでもあらうが、
「留守のうちは、他行はさすな」
と、目付のやうな武士をさへつけて、日常の事まで、歸ると報告を聞くといつたふうであつ
た。
「夫人の事は、噂もならぬぞ」
と、家中へ口止したりした。
何で良人が、そのやうに自分を監視するかと、淺ましくさへ思はれたが、よく/\自分を繞
る世間を見まはして見ると、額に長い皺の幾筋もある太閤電化の赤ら顔が、胸にうかんだ。
秀吉が何かの折、忠興と自分の居るところで、戯れに云つたことがある・・・・
「よその垣であらうが踏みこえて、つい手折りたうなるほどな花を、忠興は家内にお持ちぢや
な。・・・・麗はしい ! 淀よりは美しい」
彼の君は、何でもずば/\いふ御方と知つてはゐても、伽羅奢は、顔を紅らめた。良人は、
不愉快な顔をして、聞えない顔をしていた。
權力の下ではしかたがないと、泣き寝入りしてゐる人もあるといふが、秀吉のわるさや、好
奇心では、色々いろんな噂がある。忠興は、それをよく知つてゐる。・・・・で、非常に惧れてゐ
るらしかつた。いはゆる家の垣を、猿にでも窺はれてはと、警戒を怠らないのであつた。
さう知つてから、彼女は、一しほ身を慎んだ。それでも猶、良人の疑ひを受ける事がまゝあ
つた。貞操のことでは彼女も色をなして云はないでゐられない場合もある。夫妻の爭ひと他人
には聞たであらう。・・・・・・然し真相はいつも、忠興の愛するの餘りに原因があつた。又、彼女
も良人の熱愛に負けない愛に燃やされる所から起る現象であつた。・・・・於霜だけがいつもそれ
を微笑みながら側でながめてゐた。