津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■500円で購入できるのに・・・

2020-12-20 12:32:59 | オークション

                    宮津という地に居城を拵え 図録
            

 現在お一人の方が応札されていて3,500円なんですが、じつは発行された京都府立丹後郷土資料館にまだ在庫があって、
500円(郵送料別)で購入できます・・・よく調べてから入札しましょう。

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■ガラシャ幽閉地・味土野の地に関する疑義論

2020-12-20 10:47:27 | 論考

 先にも記した如く、明智光秀の信長弑逆後明智玉(細川ガラシャ)が幽閉生活をおくったのは、現在では京都府京丹後市大字弥栄町須川であるとされている。
これはヘルマン・ホイヴェルス神父によって明らかにされたとされている。しかしこれは歴史学的・考古学的検証はなされていない印象論であろうが、今日ではこれが定説となっている。
一方ウイキペディア「味土野」にもあるように「玉(細川ガラシャ)は丹波国船井郡三戸野に滞在しており、丹後国の味土野幽閉説は史実としてはほとんど成立する余地がないとする反論がある」

 それが、今年の三月、丹後郷土資料館の資料課長・森島康雄氏が「丹後郷土資料館だより」に発表された論考「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」である。

 森島氏は細川家の公式記録「綿考輯録」の、「丹波ノ国三戸野ト云フ山里迄ゾ返シケル」の記述をはじめ、その他の地誌検証され現在の味土野説を「史実としてはほとんど成立する余地がない」とされる。
氏は「定説とされてもそれほど確かではないものが多い」とされ「本当はどうなのか」という視点が歴史の醍醐味だとされる。

 すっかり観光地化された現在の「味土野」だが、地元の人々には心中穏やかならざるものがあろう。

コメント (3)
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■細川小倉藩(436)寛永六年・日帳(八月十三日~十五日)

2020-12-20 07:34:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十三日~十五日

         |                
         |    十三日  安東九兵衛   
         |
蘇鉄ヲ江戸邸へ搬 |一、蘇鉄、江戸へ持せ下候御鉄炮衆佐分利作左衛門尉与左左衛門尉、只今罷下候由ニ而、登城仕候、
送ス       |  林源太夫茂同前ニ罷下候へとも、是は阿波へ御使ニ被遣候而、すくニ阿波へ被参候、二三日之内
京都ヨリ日雇四十 |                                四百
八人銀子壱貫四百 |  ニ、爰元可被罷下由申候、蘇鉄、京都ゟ日雇四拾八人ニ、銀子壱貫〇五■拾目ニ而、江戸へ届申
五十匁      |  候、そてつ江戸へ持せ届申候而、 殿様被成御覧、殊外御機嫌能御座候由、申候也、
忠利殊外機嫌好シ |
         |                       (下関、長門豊浦郡)
北前へ鉄炮足軽使 |一、松本彦進ゟ、北前へ使ニ遣被申候御鉄炮衆乗せ、関まて渡候御■船頭徳嶋八兵衛也、
ス        |
         |         (正直)
田川ヨリ松茸上ル |一、田川御郡奉行河喜多五郎右衛門ゟ、松茸壱籠持せ被越候也、
         |
鉄炮足軽町人女房 |一、吉田縫殿登城にて被申候ハ、加々山権左衛門与之清太夫女をきり、はらをきり申ニ付而、此中せん
ヲ斬リシ一件   |  さく仕候、せんさく未極不申内ニ、かのきられ申女之男、今朝我等所へ参候而申候ハ、色々せんさ
足軽清太夫ハ間男 |  く仕候ヘハ、かの清太夫ハまおとこに相極申候、私儀ハ一所ニ不罷居候故、壱ヶ付ノ内ニも、五三
         |  日も参たる儀無御座ニ付、其段不存、かやうニ成行申儀、面目も無御座仕合候、我等存候は、はたし
         |  可申を無念ニ存候、私腹をも仕ほとに存候へとも、女無所存候とて、男腹をきり申たる例も無
町人女房ヲ殺スヲ |  御座候間、不及是非候、然上ハ、女を私手ニかけ申度存候間、其分ニ被 仰付被下候へと申候、
願ウ   許可ス |  いかゝ可有御座哉と灯申候間、其分可然候条、ぬし手ニかけ候やうニ可被仰付通、申渡候事、
松井興長筑前ヨリ |一、筑前ゟ、廿四五ニ成申小者壱人走参候、則式ア殿へ被召抱候事、
走来ル小者ヲ抱ウ |

         |                
         |    十四日  奥村少兵衛   
         |
三斎中津侍中へ貸 |一、三斎様ゟ、中津御侍衆へ御銀米御借付被成候分、御帳弐冊被相調、爰元御借米奉行衆へ取立可申
付シ銀米ノ取立ヲ |       中津御奉行衆ゟ
小倉借米奉行へ命 |  付由ニ而、〇被差越候を、粟野伝介ニ渡申候、御借米奉行衆へふれ状を被調、能々可被申渡由、
ズ        |  伝介ニ申渡候也、
         |                         (蜂須賀家政)嫡男至鎮は忠利相婿・共ニ室が小笠原秀政女
蜂須賀家政ヨリ返 |一、林源太夫、唯今阿波より罷下候由にて、登城被仕候、蓬庵様ゟ御返書取被下候、さまさまにて銀 
書  飛脚ニ銀子 |  子弐枚、源太夫弐被下候由申候、
賞与       |
         |                    小谷忠二郎与忠右衛門
         |一、右源太夫、江戸ゟ罷下候御長柄之者一人〇御付候而、御下被成候事、
         |         (人)
         |一、寿光院ゟ、清半や二被遣候御状、持せ遣候事、
         |一、菊野伊織やとゟ、伊織所へ遣候状、未江戸へ不遣候内、伊織相果早漏に付而、やとへもとし被申
         |  候様ニと申、隠岐へ渡候也、
         |    (細川光尚)
光尚書状     |一、従 御六様、高田角左衛門尉ニ被成遣候 御書壱つ、町参右衛門ゟノ書状壱つ、加来左衛門所へ持
         |  せ遣候也、

         |                
         |    十五日  安東九兵衛  
         |
         |  (正直)   (刑)
         |一、藪市正・西郡形部少輔両■人ゟ、使者を以被申越候ハ、今日御番にて登城仕候由、被申越候也、
         |       (清忠) 
         |   (鏡)
大阪詰小早    |一、加々見善右衛門尉登城ニ而被申候は、大阪詰御小早、今日壱艘出船仕せ候、別ニ御用なとハ無御
         |  座候やと尋被申候、別ニ御用茂無之候間、早々出船仕候様ニ可被申付由、申渡候也、
         |                                       (草履)
田町ノ鷲部屋ノ左 |一、吉田縫殿登城にて被申候ハ、田町之わしへやの左右ニ、小屋をかけ候て、たはこ・しゃうりなと
右ニ小屋懸シ煙草 |  売買仕候、惣別田町ハことの外かしけ候て、めいわく仕候ニ、かやうニ御座候ヘハ、猶々めいわ
草履ヲ商ウ者アリ |  く仕候間、小屋をものけ被下候やうニと、被申候田町之ものとも御理申候、式ア殿へも次而御座
田町ノ者撤去ヲ願 |                     〃〃〃
         |  候間、此段申上候ヘハ、のけ候て可然と思召候、併、又悪敷可有之と被申衆も可有之哉と被仰候
掃除奉行へ撤去後 |  由、被申候間、一段尤候間、こやをのけ候やうニ可被申付候、此方ゟも上林甚介ニ申付、掃除仕
ノ掃除を命ズ   |  候へと可申付候由、申渡候事、
         |    (正慶)                         ころし
町人間男セシ妻ヲ |一、加々山権左衛門尉与清太夫きり申女ノ儀、かの男きり〇申候由、被申候事、
斬殺ス      |

       

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