津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■通り名(通称)と名乗り名(諱)、そして改名

2020-12-21 11:04:15 | 徒然

 「新・細川家侍帳」改訂の作業の中で気づくことは、名乗り名(諱)がそのお宅の全代を通じて記されているのは誠に少数である。
諸家の先祖附をみても、そのほとんどが通り名(通称)のみで記されている。
「細川藩主要家臣系図」をみると、各代は名乗り名(諱)を以て記されており、名乗り名が判らないものについては「某」と表示して通り名が記されている。
我が家に於いても近世8代の中で、名乗り名が判るのは二人だけである。
最後が「安正」その二代前が「安玄(やすひろ?)」である。通名が「安」であった可能性が見える。
安正は通り名が又太郎で、明治になり一人一称となったとき通り名を選んだ。

 明治維新後の政府高官たちは殆どが名乗り名(諱)を使っているが、これは姓名に荘重な感じが得られるからであろう。
大久保一蔵は「利通」となり、西郷吉之助は「隆盛」となった。
もっとも「隆盛」は古い友人の吉井某が言い出した間違いで、吉之助は自ら「隆永が本当だ」といったが、後の祭りで間違ったまま登録されたのだという。
親しい古い友人でも忘れるほど、「諱」は認知されていなかったことが判る。

「諱」は「忌み名」というように、生前には口にすることをはばかったが、維新とともに改まったということであろう。

通り名(通称)に官名由来の「■兵衛」「■■右(左)衛門」などを使っていた人たちは、明治三年の太政官令で、いわゆる官名の使用が禁じられると、一斉に名前を改めることになる。
式部、勘解由、監物、左馬・右馬、内匠・蔵人・大輔・少輔などもアウトである。介・助・亮・弼・丞等も同様だとされたが、これは運用面では重視されなかったように見える。
改名はさまざまであり、名乗り名を使う人もあれば、新たに名前を創出した人もあり、大変興味深い。

高祖父・上田久兵衛は「休」と改名しているが、久兵衛→休兵衛→休と「久」が「休」に代わっていてなかなか面白い。

有禄士族基本帳では旧名と改名が記されているが「なんでこんな名前になさいましたか?」とお聞きしたいほどである。

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■細川小倉藩(437)寛永六年・日帳(八月十六日~十七日)

2020-12-21 07:22:01 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年八月)十六日~十七日

         |                
         |    十六日  奥村少兵衛   
         |
江戸邸裏方ノ番人 |一、江戸御裏方ノ御番靍田久左衛門尉登城にて申候ハ、今度江戸御浦御番之替ニ、弐番之ものをも可
交替シ鉄門ノ番ニ |  被遣由 御意之通、先度荒瀬角兵衛申渡候、其分に御座候哉、左御座候は、私儀は鉄之御門番被
付ク       |  仰付置候、似合之用意をも仕度候間、御番引申度由申候間、とく引候へと申渡候事、
田町ノ鷲部屋小屋 |一、田町之わしへやの左右小屋かけを仕り、売買仕ニ付、田町のものとも迷惑かり申通、昨日吉田縫殿
懸撤去ノ一件   |      
掃除奉行ヲ尋問ス |  登城ニ而申候、今朝上林甚介をよひ、彼所之小屋かけの様子ハ其方被存由聞及候、 御意ニ而被
諸牢人煙草刻売ヲ |  申付候哉と相尋候処、甚介申分は、 御意にてハ無御座候、町人にても無御座、諸牢人とも、彼所
願フ       |  ニてきさミうりなと仕度由申候、左候而左御座候は、其近所掃除をもきれいニ可仕由申ニ付而、請
         |                 〃〃〃
         |               (由脱ヵ)            
         |  状をとりをき、こやかけ申付候申ニ付、此方ゟ申候ハ、左候は早々のけさせ被申候へ、其子細は、
侍町       |  侍町ノ中ニかやうニ候てハ見苦敷も候、其上田町ノものともめいわく仕儀候、式ア殿も被成御聞
         |  届、のけさせ可然通被仰付候間、可被得其意由申渡候、甚介申候ハ、彼所をのけ申候とも、又いつ
         |  れへも参、小屋かけ仕にて可有之候、きさミうり御法度にて御座候哉と申候間、たとへ小屋をか
豚小屋跡或ハ大橋 |  け、しやうはい仕候とも、御町奉行ニ相尋、ためいけへ出候ぶたへやノ跡なとにも、こやかけさ
ニ小屋懸ハ可ナリ |  せ被申由候間、左様ノ所ニ成共、又ハ大橋なとにても、こやをかけ来候所ニかけ候ヘハ無申事候
         |  間、其分ニ仕候へと可被申付通、申渡候事、
         |     (杉野)
鷹師隼ノ兄ヲ捕リ |一、御鷹師杉木工左衛門尉、隼ノ兄壱■居、うさ郡布津部浦にて取申候由ニ而すへ、登城仕候事、
上グ       | 

         |                
         |    十七日  安東九兵衛   
         |
波奈之丸ノあまほ |一、なミなし丸のあまほうしの儀ニ付而、北前田辺作右衛門尉所へ、西沢文右衛門・戸中左兵衛遣候、
うしヲ北前ニテ調 |  今朝罷帰候、あまほうし何茂調候而、海辺ニ出シ置申候、見届候而罷帰候、此程舟ニ積候ヘハ、舟
達ス       |  ほそく候て、舟をさりわりのミ入申候而、其舟にてハ成不申候而、又陸へ上候而置申候、追付舟
         |  を借候而まわし可申候由、作右衛門申通申候、多分今晩明日わたりハ、爰元着可仕由、申候也、
鷹ノ餌ニ唐鳩ヲ捉 |一、御鷹の餌ニ、爰元ニ居候唐鳩を取せ、遣候筈にて候へ共、とられさるニ付、竹内吉兵衛所へ申遣
ラシム      |  候ヘハ、則鳩四つ自分之をとらせ、被仕上候、四つノ内三つ吉兵衛者持来候、今壱つハ立候而、
餌差       |  とらへ不申候間、御ゑさしを被下候ハヽ、さゝせ可申由、被申候、先三つ仁助所へ持せ遣候、二
         |                   (杉野)
         |  つハ山本三蔵所へ遣可被申候、〆分ハ木工左衛門ニ渡被申候へのよし、申遣候也、
         |             (規矩郡)
郡奉行へ母ヲ打シ |一、小崎與次兵衛よび候而、志井村の母を打申者ノ儀相尋候処ニ、與次兵衛申候は、数度たゝき候
者ヲ尋ヌ     |             (三淵昭和)
         |  様ニ被聞召付候へとも、内匠殿御鷹野時、一度より外ハ打不申候由被申候、則其通書物を茂仕、
         |  差上候由、被申候也、
召直サレシ兄ヲ中 |一、宮崎又市登城にて被申候は、私兄 御前を被 召直候由、中津ゟ申来候、左様ニ御座候は、私あ
津ニ見廻ウ願   |  に所へ見廻ニ参度由、被申候間、早々被参候へと、申しわたし候也、

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