「新・細川家侍帳」改訂の作業の中で気づくことは、名乗り名(諱)がそのお宅の全代を通じて記されているのは誠に少数である。
諸家の先祖附をみても、そのほとんどが通り名(通称)のみで記されている。
「細川藩主要家臣系図」をみると、各代は名乗り名(諱)を以て記されており、名乗り名が判らないものについては「某」と表示して通り名が記されている。
我が家に於いても近世8代の中で、名乗り名が判るのは二人だけである。
最後が「安正」その二代前が「安玄(やすひろ?)」である。通名が「安」であった可能性が見える。
安正は通り名が又太郎で、明治になり一人一称となったとき通り名を選んだ。
明治維新後の政府高官たちは殆どが名乗り名(諱)を使っているが、これは姓名に荘重な感じが得られるからであろう。
大久保一蔵は「利通」となり、西郷吉之助は「隆盛」となった。
もっとも「隆盛」は古い友人の吉井某が言い出した間違いで、吉之助は自ら「隆永が本当だ」といったが、後の祭りで間違ったまま登録されたのだという。
親しい古い友人でも忘れるほど、「諱」は認知されていなかったことが判る。
「諱」は「忌み名」というように、生前には口にすることをはばかったが、維新とともに改まったということであろう。
通り名(通称)に官名由来の「■兵衛」「■■右(左)衛門」などを使っていた人たちは、明治三年の太政官令で、いわゆる官名の使用が禁じられると、一斉に名前を改めることになる。
式部、勘解由、監物、左馬・右馬、内匠・蔵人・大輔・少輔などもアウトである。介・助・亮・弼・丞等も同様だとされたが、これは運用面では重視されなかったように見える。
改名はさまざまであり、名乗り名を使う人もあれば、新たに名前を創出した人もあり、大変興味深い。
高祖父・上田久兵衛は「休」と改名しているが、久兵衛→休兵衛→休と「久」が「休」に代わっていてなかなか面白い。
有禄士族基本帳では旧名と改名が記されているが「なんでこんな名前になさいましたか?」とお聞きしたいほどである。