津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■またまた「二様の石垣」の疑問について

2022-05-01 06:35:45 | 先祖附

 昨日は昼食後図書館に出かけた。以前借りた本の返却の爲だが、数日遅れてしまった。
お叱りの電話が入る前にと思っての事だが、少々確信犯である。
約4㌔弱をチャリンコで出かけたが、行きはささやかな下り勾配なのだが、半分もいかないうちに腿のあたりが痛くなる始末、80を過ぎるとこういうことかと唖然とする。
帰り道は押して知るべしであった。

 図書館浴を楽しんでいると、「熊本城超絶再元記」という本が目に入った。
                                   
あの熊本城の1/150の見事なジオラマを作成された島充氏の、その制作過程を紹介するご本人の著書である。
私も建築設計を生業にしてきて、自分の作品については模型を作ったことは度々ある。
しかし、このジオラマの制度はただただ感嘆するのみである。
史料となる古地図や図面、古写真などを詳細に検証しながらの大変な作業である。
この本に登場する写真は、一見本物の熊本城ではないかと思わせる精密さである。いろいろ教えを受ける事が多い。

 さて先に私がこのブログで疑問を呈した「二様の石垣」については、島氏も同様の疑問を持たれていた。
二様の石垣の外側の石垣は、細川時代のものと言われてきた。処がその上に立つ本丸御殿や、これに続く平櫓・小広間などは加藤時代、慶長15年頃の完成だと言われている。
私も随分史料は読んだつもりで居るが、この点の解説をしたものには出会っていない。まだ資料の読み込みが不足しているのだろう。
島氏は特に「大広間と二様の石垣の謎」というコラム(3)を書いておられるほどだ(p92)
細川時代の石垣は、加藤時代の石垣から2間ほど継ぎ足されている。
大天守同様、石垣から飛び出していたというのだろうか。つまり空中に浮かんでいたということだ。
そしてこれは危ないというので石垣を積み上げたというのだろうか。これは一つの推論である。
二つ目は、細川時代の者とされる継ぎ足し部分の石垣も、加藤時代、つまり建物の完成までには積み足されていたのではないか。
島氏も同様のご意見をお持ちであった。加えて・大広間は細川時代に作られた、又清正時代に作られたものを引き家した、という四つのお考えを披露しておられる。

 まったく同じ考えで我が意を得たりと嬉しくなってしまった。

出来上がった模型は戸外にだして、青空や夕焼けなどをバックに詳細に撮影がなされているから、本物と見まごうばかりである。
しばらく借りた本を熟読し、返却したあとは新しく購入しようと思っている。

コメント
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