津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(23)

2022-05-26 14:57:36 | 家紋

                             
                                                                新・肥後細川藩侍帳【よ】の部      

■吉田善左衛門は、相撲司(南東20-6)吉田善内家は、代々が善右衛門を名乗っており、人物の特定は出来ない。
 家紋は「隅立角に■■」     


■吉田嘉大夫は、(南東20-8)吉田傳太家の6代目・嘉大夫(傳兵衛)、ちなみに8代目・太左衛門は文久二年(1862)十二月
 十九日別宅(お玉ケ池桧物町)横井小楠他ト酒宴中刺客ニ襲われ後日死去。9代・己久馬(傳右衛門・傳太)は仇討ニ
 出、後
 慶応四年(1868)二月三日鶴崎竜興寺境内ニテ仇討ち(吉田傳太復仇録) 家紋は「組み合わせ角紋」

■吉田嘉久馬は、(南東20-10)吉田嘉蔵家の4代・冨寿(嘉久馬・繁蔵)である。家紋は「丸に吉文字紋」「黒平角に持ち合い切り抜き紋?」

■吉山市右衛門は、【丹後以来】の(南東21-4)吉山典午家の 5代・市右衛門(養子 初・九郎太夫 杢之助・直昌)で}ある。
 享保十七年四月~享保十九年十二月 阿蘇南郷郡奉行、寛延三年六月~ 下益城郡奉行、享保十九年十二月~宝暦二年九月(病死)飽田詫摩郡奉行。
 家紋は「剣花菱二つ切紋」「丸に吉文字紋」

■吉村忠兵衛は、(南東20-22)吉村儀平家の4代目である。父・文右衛門 は延享三年「吉村文右衛門上書」を上げたことで知られる。
 家紋は「隅入り立角に二つ巴紋」「亀甲に水文字紋」

 ヨシガイ
■吉海万平
は、(南東21-3)吉海小平太家の5代目・幸純。文化四年四月(三十挺副頭)~文化七年九月 高橋町奉行・十挺頭ニ転
 尚、市之允・景純は「藩に仕へ奉行職となり、禄三百石。宝暦改革に力を盡して其功多し。」
 家紋は「六角」(又は亀甲)   

■吉海又八は、(南東21-6)吉海弥門太家の5代目である。同上・小平太家の分家であり、家紋も同じ。  

■吉見市三郎は、北野天満宮社家・梅松院の出で(南東21-15)吉見十内家の7代目・市三郎(市右衛門・喜八郎)である。
 家紋は「梅鉢」
    

■吉村橘左衛門は、(南東20-20)吉村橘次家の人だが、代々が橘左衛門を名乗り人物の特定は不可能である。
 家紋は「六角三つ銀杏紋」か?  


■吉村嘉善太は、(南東20-21)吉村橘太郎家の6代嘉善太(直左衛門)。
 文化元年頃~ 芦北郡代、文化十年一月~文化十四年三月 菊地郡代(合志郡・兼)。家紋は三重丸だが正式名称は不詳。
                         
 

■吉住半四郎は、【丹後以来】(南東21-1)吉住半四郎家の9代目である。旧六百石「天保申年三百石被召上候事」とある。
 家紋は「  」
■吉住小十郎は、【丹後以来】(南東21-13)吉住直人家の6代目である。家紋は本家に同じ。 

■吉川安助は、(南東21-19)吉川一休家の4代目安之助(安大夫・安助)である。家紋は「丸に細桔梗紋」か?  

■吉弘加左衛門は、(南東21-5)吉弘 加家、こちらも代々加左衛門を名乗りとしており特定が出来ない。
 大友一族で石垣原の戦いに於いて実質の対象を務めた吉弘嘉兵衛・統幸の子孫である。それゆえ家紋は「杏葉紋」である。  

■吉弘友之進は、同上分家、(南東21-7)吉弘 貞家の6代目である。家紋は本家に同じ。  

■吉冨猪八は、(南東21-11)吉冨一平家の6代目である。家紋は「隅立角に折れ松紋」「  」

■吉岡半右衛門は、鶴崎城主吉岡統増を初代の父とする(南東21-16)吉岡準平家の6代目・政之助(半右衛門)である。
 家紋は「隅切り立角に一文字紋」「七宝に一文字紋」  


■吉岡 仕については、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。そのため先祖附が見受けられない。

■吉津 仲についても、「細川家家臣略歴」に名前が見えない。

■吉井市右衛門についても同様である。

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■某御家老家のコレクション出る

2022-05-26 08:30:34 | オークション

【真筆】【蘇山】[細川衛世姫 幾姫 治年 濵丁 斉樹 宣紀] 6021 掛軸 手紙 絵 和歌 手紙 箱付 紙本 熊本 肥後 藩主 在銘

             

  出品者の説明によると、某家老末裔家のコレクションだという。内容写真はこちらからご覧いただきたいが、見事な品物ばかりである。
特に私の目を引いたのは、齊茲公の参勤の途中で描かれた「濱丁様御画」と称する周防室積・富士・笠戸などの風景画である。
その画才は御子・耈姫様像でいかんなく発揮されているが、この参勤途中での写生も素晴らしい。
随分高額な入札額になるのではないか。    

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