津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■屋根より高い鯉のぼり・・

2022-05-05 14:13:20 | 徒然

 TVから「屋根より高い鯉のぼり♪♪」と歌う人の声が流れている。
近くのマンションのベランダに、いかにも現代というような鯉のぼりが上がっている。
    ベランダに小さい幟親心  と言った感じ・・・
男の子が生まれての嬉しさが現れている。

 私の心に残る鯉のぼりは、熊本大地震後の倒壊したお宅の庭に立つ、大きな吹き流しと緋鯉・真鯉の三流れの本格的な鯉のぼりだ。
鯉のぼりと共に、お子さんの名前が染め抜かれた旗が翻っていた。

自転車で被害状況を見て廻っていたところで見受けた風景だ。
人気の見えない庭先の鯉のぼりは、何事なかったように泳いでいたが、
そのお子さんも小学生といった処か。
どうぞお健やかに・・・

 もう一つは、熊本と大分の県境にある「杖立温泉」を流れる杖立川。
ここには数百匹の鯉のぼりが川渡しで泳いで壮観だが、最近はあちこちでこれが真似られているが、ここも随分早かったように思う。
多けりゃ良いというものではなく、もう少し絵的ににいうと間引いてもよさそうな気がする。
しかし、お古の鯉のぼりが捨てられず、また新しい命を観光地で過ごせるというのもなかなか今日的ではある。

 すぐ近くの御宅にも、屋根より高い鯉のぼりが泳いでいた。今日はご家族そろってお祝いでしょうか。
証拠写真を撮ろうと思ったが、広い有料駐車場の奥の方に立ててあるから、望遠でなければ取れそうにない。(残念)

この様に、日本の良い伝統がまだ息づいている。
処が、軒端や床の間にかざる「菖蒲の葉+蓬」の束があまり見受けられない。
そして菖蒲の葉で向こうハチマキ姿の人がいたものだが・・・そんな姿も今は懐かしい。

せめて粽(ちまき)でも買っていただきましょうか・・・

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■豊前→肥後、お引越しの裏話

2022-05-05 13:05:23 | 史料

 綿考輯録も時には面白い記事を書いてある。編者小野武次郎氏に感謝!!

御家中の面々も妻子共ニ引越宿割之通各落着候也、熊本町屋之外近在郷ニ致宿候も有之候、
右妻子引越候事ニ付而或覚書ニ、長岡勘解由ハ御家老にて五千石也、肥後江妻子引越候時、
   (1)
嫡子沼田小兵衛三四歳ニて候を駕ニも乗せず、家来の侍ニ入拘て熊本江参候由、右小兵衛
隠居名藤梅直ニ物語なり、平野九郎右衛門ハ其比御小姓頭にて千石被下置候、五歳・三歳の
 (2)
男子二人をふごにのせ、馬ニ付たる中ニ乳母一人乗て熊本へ参候、右九郎右衛門子も九郎右
衛門と申、隠居名如元、此者直ニ申聞候を覚居申候、右之通之儀書記候儀恐多御座候へとも
其時代ハ物毎ニ手軽ク御座候儀相知候ため、直に承りたしかに覚候故書記申と云々、

 

 (1)長岡勘解由は3代目の延之、家来の懐に入って肥後入国したのは剃髪号藤梅から4代目の延将である。
    没年から逆算すると3歳(満2歳)これなら懐に入るか
    しかし、この後幼くして江戸證人となる。
 (2)この平野氏は北条時行を祖とする。隠居名如元からすると、この人は本家の2代目・長常、食禄千石、
    国政に参與し、一国出納の事を監督す。宝永四年十二月三拾日没す。年八十。当時5歳か?
    (1)の沼田延之の姉・お多阿は平野九郎右衛門に嫁いだというが、年齢からするとこの長常であろう。
    今一人は良くわからない。
    処でふごとは「畚」と書き、「 竹・わら・縄などで網状に編み、四すみにつりひもをつけ、物を入れて
    運ぶ用具。もっこ。」乗り心地は如何だったろう。乳母どのはそのふごが取り付けられた馬に乗っての
    肥後入りである。
                                                              岩国市HPより引用す・感謝

上記記録の最後にある様に「其時代ハ物毎ニ手軽ク御座候」とあるが、手軽い事、半端ない。どなたさまもご苦労さん。

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■井上章一的心

2022-05-05 07:08:26 | 書籍・読書

 笑い話のような話だが、もう随分以前バスの中で「風俗史学」の本を開いて読んでいたら、目の前に立っていたご婦人がなんとも嫌な顔をしてこちらを伺っているのに気付いた。いかがわしい風俗の世界の歴史の本か何かと思われたのだろう。
これは、大変おかたい1690年設立という古い歴史を持つ「日本風俗史学会」の会誌である。
日本の生活文化の広範な歴史を研究する研究者の団体である。会誌のバックナンバーからその内容を御覧になるとよく理解できる。
    会誌『風俗史学』バックナンバー

 私が敬愛してやまない、日本国際文化研究センター所長の井上章一先生も風俗史家という肩書をもっておられる。
まさしくその洒脱な語り口から紡がれた多くの著作は、まさに風俗史家としてのものであろう。
但しご出身の京都大学の建築学に於いても、「伊勢神宮」「伊勢神宮と日本の美」「法隆寺への精神史」「つくられた桂離宮神話」「戦時下日本の建築家」などなどがある事を強調しておかなければならない。

 桂離宮に関する著書については、これを書こうとされた発端がいかにも「京都ぎらい」を口外してはばかられない先生らしい。桂離宮は貴族文化の頂点を極めた名建築である。一方遊郭に「角屋(すみた)」なる揚屋建築があり、現在では「角屋もてなしの文化美術館」となっている。寛永初期の町人文化が頂点を究めた「遊郭」である。
これを売りにして文化美術館というのだから恐れ入る。もっとも当事者たちはそういわれることを大いに嫌うようだ。

そして桂離宮とこの角屋という対極にある二つの建築には、デザイン性に共通する所があると喝破したのが、林辰三郎という歴史家だ。
言われてみればなるほどと思う。建築家の端くれとしては、図書館に出かけ改めて確認したいと思っている。

井上先生は、〇〇社が発行する「別刷〇〇・京都を知る100章」なる本の執筆を依頼され、林氏のお説を取り上げてその類似性に触れられた。この本は写真が売りである。
処が「宮内庁・京都事務所が」が桂離宮に関する写真の使用を断ってきたというのだ。編集にも口をはさんできたのだろう。
井上先生は編集部から懇願され、心ならずも林説については触れられなかったという。

宮内庁は遊郭と一緒にされてはたまらんというお高い意識がある事に気付いた、先生は「今に見ておれ」と奮い立たれた。
のちに出版された「つくられた桂離宮神話」がそうであろう。

そして京都人(洛中の人)に聞くと、「数寄屋建築=御妾さんの家(うち)」であるそうな。中々言い得て妙である。
天下の名建築とたたえたブルーノタウトも、一度はそんな御妾さんの家もご覧になればよかったろう。
「井上章一的心」を大いに称えたい。また先生の著書を一二冊注文しようと思っている。

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