津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■街角の風景「小さな御社建設中・・」

2022-05-21 16:35:19 | 徒然

 熊本市民会館の西隣に山崎天神がある。「茶臼山ト隈本之図」にも記載がある古い御社である。
今朝、熊本市史談会の5月例会に出席のために前を通っていたところ、小さな御社が建設中であった。
明日で終了する「くまもと花と緑博」の会場の喧騒も感じられるそんな街中である。
もう八分ほどの完成度であら方の姿を現している。大工さんの仕事が終わり、屋根が(多分銅板葺きだろう)葺かれると完成である。
見事な檜造りで宮大工さんがお一人で作業をしておられたが、傍で眺めて居たい気持ちにさせられた。
私は建築設計を生業にしてきたが、このような寺社建築は門外漢である。
しかし歴史に親しむにつれて、こういう寺社建築や御城の建築などに大いに興味をそそられている。
熊本県立図書館の構内に、細川忠興が一色某(希首座)を殺害した事に関係する御社があるが、この建物も見事な仕事ぶりが伺えるが、今日拝見した山崎天神の御社も同じくらいの大きさで作りが大変良く似ていた。
現代においてはちゃんとした設計図があるのだろうか?ちょっと聞いてみたい気がしたが、お手を休めるわけには行かないので諦めた。
来月の史談会の折には、完工していることだろう。写真でも撮ってご報告したいと思う。
CADをつかって設計図に起こしてみたいという欲望がふつふつとしている。

                  参考: ■希首座を祀る祠  ■綿考輯録から「希首座」事件

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■御侍帳・家紋から考える(20)

2022-05-21 06:55:41 | 家紋

                           

                                                  新・肥後細川藩侍帳【か】の部

加来佐左衛門は、(南東19-9)加来煩平家の3代目・佐左衛門(五百石 御留守居組・大組附 屋敷・内坪井)
 初代佐左衛門の次兄・三七(兵右衛門)は細川三斎の養女・御三(細川行孝室)の父であり、八代時代の側室・立法院(いせ)は姉に当たる。姪の「御三」を養育した。
 家紋は「菊輪に巴紋」、もう一つは「隅切り立角に杏葉紋」これは豊後大友一族であることを示している。

     加来兵右衛門----+----三右衛
            |
            +----三七---------お三(細川三齋養女・後細川行孝室 源立院)
            |
            +----いせ(細川三齋側室・立法院 お三を養育)
            |
            +----佐左衛門----宇左衛門----佐左衛門  

加来三右衛門は、上記佐々右衛門の長兄である。上記加来煩平家の初代・佐左衛門が名跡を相続したものと思われる。
 家紋はまさに豊後大友一族であることを示す「杏葉」であり、今一つが「巴紋」である。家紋からも嫡家であることが判る。

加藤恒雄は、(南東18-21)加藤民七郎家の7代目(御掃除頭・御掃除御奉行触 百五十石)である。
 下って深水家からの養女・田鶴は細川護久の生母(齊護側室)である。家紋は「巴紋」である。 

加藤伝之進は、(南東18-19)加藤傳次家の5代目である。初代は田邊上に籠城した金山下坊、2代才助が幼少であったため後家に50石が与えられた。
 成人の後才助が50石を拝領、細川家肥後入国後すぐに佐敷詰となり、代々佐敷詰である。
 家紋は「一に巴紋」である。  

加藤左兵衛は、(南東18-20)加藤閧男家の5代目・左兵衛(信五左衛門)である。家紋は「下り藤」及び「亀甲に■■」  

加々美八右衛門は、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎の一族・加々美氏の人物だと考えられるが、名前が見当たらない。一代限りの人か?
 家紋は小笠原家の家紋「三階菱紋」である。

加々尾市右衛門は、(南東17-12)加々尾市郎家の7代目・源蔵(市右衛門)嶋田四郎右衛門組・御番方三番組 二百石である。
 家紋は「丸に一文字紋」 

嘉悦惣右衛門は、(南東16-1)嘉悦平馬家の7代目で、御使番・御中老支配 三百石。家紋は「 ? 」「船紋」

嘉悦      この人物は名前が記されておらず不詳。

狩野四平太は、(南東17-1)狩野庄馬家の8代目で御番方・続繁弥組 二百石。家紋は  

狩野太郎大夫は、(南東17-22)狩野源内家の5代目・兵大夫(三男 太郎太夫・太郎兵衛)二百石当時五百石である。
 家紋は「二つ巴紋」である。狩野源内の三男が昭和19年に文化勲章を受章した狩野君山。細川護貞さまが師と仰がれる人物である。 

辛島才蔵は、(南東17-25)辛島彝蔵家の時習館教授・辛島えん井である。御鉄炮三拾挺頭・惣教支配・時習館教授 三百石内二百石御足高。
 名は和雄、一名憲、字は伯彝、才蔵と称し、エン井と号す。幼にして穎悟、数歳にして句讀を受け大學を背踊す。長じて草野潜渓に学ぶ、
 後時習館訓導となり又江戸にして大府の命を蒙り經を昌平黌に講ず。藩臣此の栄典にあずかるもの薩(摩)の赤碕海門、芸(洲)頼春水
 等数人のみ、後進んで時習館教授となる。所謂六教授の一人也夙に程朱を信し、忠君憂国の念終始一の如く、又親に事へて孝養を極む。
 天保十年二月廿三日没す。年八十六。墓は万日山
 家紋は「三角に丸紋」  

辛川直部は、 (南東16-10)辛川弥五作家の7代目、御前様御付・御裏方支配頭之支配・御前様お付、御裏付兼帯 百五十石。家祖の九兵衛は後藤又兵衛の縁類だとされる。家紋は「陰蛇の目紋」

辛川甚平は、同上一族、(南東16-12)辛川一二家の5代目で養子である。家紋「同上}   

辛川文平は、同上一族、(南東63-125辛川喜八郎家の5代目である。6代目・喜八郎の代「御知行被召上候 文政十二年七月 御擬作高百石」 
 家紋は「同上」
 

辛川充弥太は、同上一族、(南東16-11)辛川孫四郎家の7代目である。息・孫之允は文政十二年七月~文政十三年九月 飽田詫摩郡郡代
(上、下益城郡助勤)、文政十三年九月~天保七年九月 芦北郡郡代、安政元年四月 ~安政五年二月 奉行副役、安政五年二月 ~
 安政六年十月 奉行 在任中に死去した。家紋はこちらは陽の「蛇の目紋」である。  

鏡 清三郎は御船頭頭の家、(南東58-5 船)鏡栄次郎家の7代目、御船頭之頭・鶴崎御番代触である。
 初代善右衛門は「御船手惣奉行」を務めた。家紋は「丸に上文字紋」村上水軍の関係者か、今一つは「丸に工文字」の陰紋か。

萱野九郎助は、(南東17-9)萱野 食(クロオ)家の7代目・只之允(九郎助)である。
 家紋は少々判りにくい。「隅立角に二つ巴紋」か  

 

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