津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「頓」という文字

2022-05-22 18:05:17 | 徒然

 「頓」という字は、今日ではあまり使われない文字の一つではなかろうか。
「とん」と読み、[訓]では「とみに ひたすら」である。
「とんと駄目だ」というのは「全然だめだ」という事になる。
細川忠興の弟・興元の名は頓五郎、これは「とみごろう」なのであろうと思うが如何だろう。
「ただひたすらに」「健やかに」という父・幽齋や母麝香の想いが見て取れる。

昔の手紙などを見ると、「頓首」などと書かれたものが見受けられるが、「頭を地面に摺り着けるように・・」という意味があるそうだから、へりくだり方が半端なく、もう最近では死語であろうか?
小学校の同級生に「とんそう(遁走)」は「逃げ去るという意味」と聞いて、「豚が逃げた」とずっと思っていたという男がいた。
70年ばかり前の話だが、名前もそして顔も覚えているが、会う機会があればそんな話をしてみたいと思うのだが、卒業以来「頓と消息が知れず」あったことがない。

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■清正に「鹿苑寺殿」と呼ばれた人

2022-05-22 06:37:18 | 人物

 いわずもがな、鹿苑寺とはあの有名な金閣寺の事だが、殿がつくと室町幕府3代將軍足利義満をさす。
処で加藤清正がそう呼んだ人がいる。かっては鹿苑寺金閣の僧であった人が還俗して清正に仕えた下津棒庵の事である。
天正19年清正が領国熊本の家臣、加藤喜左衛門・下川又左衛門に宛てた36条に及ぶ書状の中に次のようにある。
「鹿苑寺殿可有上洛之由被仰候共、清正近日令下国間相留可申事」
「鹿苑寺殿(下津棒庵)上洛あるべきの由仰せられ候共、清正近日下国(帰国)せしめ候間、相留め申事」とある。

 もう10年ほど前になろうか、京都の京丹後市峰山町丹波の相光寺のご住職・西田承元師から突然ご連絡をいただき、「下津棒庵なる人物が金閣寺の出身だという事は事実なのか」というお問い合わせを頂いたことがあった。
間違いない旨を御返事し、下津家の関係者にもその旨をご連絡したことがあった。
師のご指摘は「金閣寺では還俗ということはありえないから・・」という事であった。
このご縁があって、今日もご厚誼をいただいている。

 先に書いたように、清正は棒庵を「鹿苑寺様」と呼んでいる。金閣寺に修行された御坊様という事での敬称であろう。
日蓮宗の信者でもあった清正は、相国寺とは深いかかわりを持つ。鹿苑寺金閣はその相国てらの山外塔頭である。
そういう関係で、かっては公家(久我家)にうまれ、鹿苑寺金閣の僧であったを熊本半国の領主となった清正が招聘してたのである。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」によると、たびたびその名前が出てきて、「御納戸」(財政、出納)方をまかせられ、お城の建設、町人町の計画などに深くかかわるとともに、善蔵たちを安土城や大阪城の見物に連れていったり八面六臂の活躍である。
当サイトでは、「時慶記による下津棒庵」として、慶長期のある時期の下津棒庵の行動をご紹介してきた。
棒庵は加藤清正の外交を担った人物だとよく言われるが、まさにそのことを表している。
棒庵坂にその名を残し、また清正亡き後の加藤家内の騒動「牛方馬方騒動」の仕掛け人でもある。
色々なところで名前を残した怪僧ともいえる。その子息は細川家にも召し出された。
又、御一方は東久世家を創家した。
大変親しくご厚誼いただいている、熊本史談会で色々お世話になった下津さまも、ご子孫のお一人である。

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