細川忠利がが肥後国にに入ったのは、寛永九年十二月九日の事である。(辰の上刻=午前7時過ぎ頃)
役目を負って先発で入国する者や、小倉からの道筋での宿割や、忠利に随伴するもの、またそれぞれに家族を引き連れてくるなど、入国の様態も様々である。飛ぶ鳥跡を濁さずで、小倉の城を跡に入国する小笠原氏の為に準備の者などは引継ぎの為に、小倉や中津に残り、入国はその年いっぱいであったかもしれない。
そんな中、江戸上屋敷が貰い火で焼失した。歳も迫った廿九日の事である。
年が改まると元旦には国許ではお国入り後初の御礼の御規式があり、二日には御謡初めの式など、いつもと変わらぬように執り行われた。
正月十日大坂町奉行久貝因幡守より上屋敷類焼の急報が入った。火元は松平新太郎殿とあるから、岡山藩主・池田光政の江戸上屋敷である。和田倉門に近く細川家と同様大名小路を正面玄関とする屋敷と向屋敷があった。(松平内蔵頭・家紋)の表示あり。細川家の三軒隣にあたる。
江戸屋敷からの報はまだ入っていないことを伝えて、その日のうちに早々のお礼の使者を立てている。
この人がそのまま江戸へ下ったのかもしれない。
急遽、屋敷周りに塀をめぐらすように指示がなされた。
細川家は三斎の時代、將軍の御成りを申し上げたらどうかと幕府要人から進められている。
秀忠の時代だと思われるが、三斎は婉曲に断っている。
忠利は、いずれは御成りを受けなければならないだろうと考えて居たらしく、そのためには辰口の上屋敷が手狭であるとして、隣に在ったとされる延寿寺とか松平大和の屋敷などの下賜を懇願している。
多くの大工が江戸へ下され材木が運ばれたりしている。
忠利は入国後すぐに加藤家の事業を引き継ぐように、白川の土木事業などに着工している。
熊本城は、加藤忠廣代は手入れなどもままならなかったらしく、幕府に対して修繕の申請をしているが、一方資金不足で5,000両という金策を依頼している。
「荒川」という女性に対しての書状案が残されているが、私は、忠利の妹・萬姫(烏丸光賢簾中)付の老女ではなかろうかと考えて居る。利息とも二年で返すとしている。
忠利は熊本城の大きさに驚き「ニ三年我慢すれば、大金持ちになる」と息・光貞(光尚)に書き送っているが、江戸屋敷の再建など予定外の惨事であり、細川家の財政事情はすでにこの時期から悪化し始めたのだろう。