津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御侍帳・家紋から考える(22)

2022-05-24 13:27:22 | 家紋

                                           
                新・肥後細川藩侍帳【か】の部

■蒲池喜左衛門は、(南東19-3)蒲池軍太家の5代正定であろうと思われる。宝暦の改革の立役者の一人である。
 蒲池崑山 名は正定、通称喜左衛門、崑山と号す。人と為り厳正、人に異る志操あり、而して性遅鈍、少しも利発なる
 事なく、言語も即時に出兼る程の人なりしが、器識ありて大事を処するの才あり、奉行職となり、後には大奉行を兼ね
 政務の難局に當り、即座に決し難き事は一夜思案して翌日出仕して陳述するに、必ず奇計妙策にして同僚同意心服せざ
 る事なしと云ふ。時に三間梯子の称あり、尢名誉ある人なり。食禄九百石、宝暦改正に力を致して功績大なり。
 寛政五年十二月十八日易簀、年六十六。墓は内坪井流長院。家紋は「左巴紋」及び「丸に■■紋」である。   

■加藤軍次については詳細を知り得ない。家紋は「杏葉紋」

                新・肥後細川藩侍帳【よ】の部

■吉田茂兵衛は、該当人物が見受けられない。今後の課題としたい。

■横山寿七郎は、(南東21-2)横山龍造家の8代目。 寛政十二年八月(御側御弓十張頭)~文化七年七月 八代番頭、
 文化七年七月~文化十三年二月 留守居番頭、文化七年九月~   番頭、文化十二年九月~文化十三年 鶴崎番頭、
 家紋は「丸陰に流鼓紋」

■横山幸記は、(南東21-9)横山萬次郎家の6代(弥次右衛門) 新知二百石
 横山幸記知行差紙(寛政八年)二百石、細川斎樹公御書出(文化九年)二百石、細川斎護公御書出(文政九年)二百石、横山三郎吉知行差上目録(文政十二年)が残る。
 家紋は龍造家と同じである。分家筋である。

■横田勘左衛門は、(南東20-17)横田 清家の5代目である。謙信流軍学師範。名は房卿、世禄二百五十石、藩に仕へ軍
 学師範たり。天明七年六月廿九日没す。年六十六。家紋は「丸に五つ環に唐花?」
■横田は、名前がなく人物の特定できず。家紋は「同上」及び「隅切り平角に違い鷹羽紋」

■横井楽三郎は、(南東21-8)横井然平家350石の人物と思われるが、楽三郎を名乗る人物の特定が出来ない。
 横井氏は北条氏を出自としており家紋は「三つ鱗紋」である。   

■横井儀右衛門は、(南東21-18)横井 覚家の家系の人物だが、代々が儀右衛門を名乗り人物の特定には至らない。   
■横井大平は、(南東21-14)横井平四郎(小楠)家の4代目、横井太平 名は時直、幼より才幹あり、藩に仕へ穿鑿所目
 付より所々郡代等を勤め、奉行副役作事頭兼帯となる。天保十一年六月四日没す。年五十六。其子は小楠なり。 

■吉田淳平は、大友一族、(南東20-9)吉田 淳家の7代目、御鉄炮三十挺頭・大木組 五百石である。
 大友義鎮(宗鱗)→大友義統→大友義乗→大友義親(大友家嫡流義乗二男)→細川家家臣吉田家初代・縫殿助と続く名門である。
 家紋は言わずと知れた「大友杏葉紋」である。  

■吉田次郎左衛門は、(南東20-12)吉田二兵家の4代左内(二郎左衛門)もしくは、5代十郎助(善右衛門・二郎左衛門)のいずれか?
 家紋は「陰陽二文字紋」及び「丸に三つ柏紋」  

■吉田伝右衛門は、(南東20-7)吉田傳衛家の4代目傳右衛門(太郎兵衛)である。養子の閏之助は「肥後菖蒲」の祖。
 家紋は「左巴紋」 

■吉田小次郎は、(南東20-4)吉田権三家の7代目である。家紋は「隅切り角に左巴紋」「隅切り角紋」

■吉田平右衛門は、(南東20-2)吉田長四郎家の6代目。家紋は「隅立角に左巴紋」上記権三家と親族か?  

■吉田松立は、御医師で(南東56-10 医)吉田英記家の4代目である。家紋は「違い角」

■吉田五郎左衛門は、(南東20-1)吉田孫四郎家の7代目。家紋は「隅入り角に■■紋」  

■吉田内藏次は、(南東20-3)吉田三郎家の4代目である。家紋は不詳。 

■吉田嘉右衛門は、(南東20-5)吉田 学家の5代~8代が同名であり家禄も同じであることから特定し難い。
 家紋も不詳。  

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■一年前の記事から

2022-05-24 07:14:44 | 歴史
 
■最近知った二つの事実

 最近知った二つの事実、周辺の史料にはあるのかもしれないが勉強不足で承知していなかった。■沼田家の熊川城退去の事 現在武田元明の家臣であったというM家の先祖附を読んでいる。祖の......
 

 一年前■沼田家の熊川城退去の事■有吉平吉の細川家仕官の事をかいている。その後それぞれに進展があった。

1、沼田家の熊川城は後にここで取り上げたM家=実は松宮家が治めることになったので、松宮氏に依って攻め落とされたものと理解していた。
   処が、沼田家の系図をよくよく眺めていたら、なんと松宮左馬允久住という名前が見え、この人が沼田清延女婿であることが判った。
     左馬允の父が清長であり、清延の長兄・沼田光長が永録八年、將軍義輝生害の時討死したため、主を失った熊川城をせめ代官となったのではないかと考えられる。
 兄弟と雖も相争うのは乱世の世の常である。参考「城郭放浪記・若狭熊川城

2、有吉平吉に関する大阪城が所蔵する史料については、その後購入した「有吉将監」により詳細を知り得た。

歴史の勉強は、資料を読み込んでいると、ふとしたきっかけで絡んでいた糸がほぐれる様に、その大本が見えてくることがある。日頃の勉強を怠らずにがんばれということだと認識している。

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