■蒲池喜左衛門は、(南東19-3)蒲池軍太家の5代正定であろうと思われる。宝暦の改革の立役者の一人である。
蒲池崑山 名は正定、通称喜左衛門、崑山と号す。人と為り厳正、人に異る志操あり、而して性遅鈍、少しも利発なる
事なく、言語も即時に出兼る程の人なりしが、器識ありて大事を処するの才あり、奉行職となり、後には大奉行を兼ね
政務の難局に當り、即座に決し難き事は一夜思案して翌日出仕して陳述するに、必ず奇計妙策にして同僚同意心服せざ
る事なしと云ふ。時に三間梯子の称あり、尢名誉ある人なり。食禄九百石、宝暦改正に力を致して功績大なり。
寛政五年十二月十八日易簀、年六十六。墓は内坪井流長院。家紋は「左巴紋」及び「丸に■■紋」である。
■加藤軍次については詳細を知り得ない。家紋は「杏葉紋」
■吉田茂兵衛は、該当人物が見受けられない。今後の課題としたい。
■横山寿七郎は、(南東21-2)横山龍造家の8代目。 寛政十二年八月(御側御弓十張頭)~文化七年七月 八代番頭、
文化七年七月~文化十三年二月 留守居番頭、文化七年九月~ 番頭、文化十二年九月~文化十三年 鶴崎番頭、
家紋は「丸陰に流鼓紋」
■横山幸記は、(南東21-9)横山萬次郎家の6代(弥次右衛門) 新知二百石
横山幸記知行差紙(寛政八年)二百石、細川斎樹公御書出(文化九年)二百石、細川斎護公御書出(文政九年)二百石、横山三郎吉知行差上目録(文政十二年)が残る。
家紋は龍造家と同じである。分家筋である。
■横田勘左衛門は、(南東20-17)横田 清家の5代目である。謙信流軍学師範。名は房卿、世禄二百五十石、藩に仕へ軍
学師範たり。天明七年六月廿九日没す。年六十六。家紋は「丸に五つ環に唐花?」
■横田は、名前がなく人物の特定できず。家紋は「同上」及び「隅切り平角に違い鷹羽紋」
■横井楽三郎は、(南東21-8)横井然平家350石の人物と思われるが、楽三郎を名乗る人物の特定が出来ない。
横井氏は北条氏を出自としており家紋は「三つ鱗紋」である。
■横井儀右衛門は、(南東21-18)横井 覚家の家系の人物だが、代々が儀右衛門を名乗り人物の特定には至らない。
■横井大平は、(南東21-14)横井平四郎(小楠)家の4代目、横井太平 名は時直、幼より才幹あり、藩に仕へ穿鑿所目
付より所々郡代等を勤め、奉行副役作事頭兼帯となる。天保十一年六月四日没す。年五十六。其子は小楠なり。
■吉田淳平は、大友一族、(南東20-9)吉田 淳家の7代目、御鉄炮三十挺頭・大木組 五百石である。
大友義鎮(宗鱗)→大友義統→大友義乗→大友義親(大友家嫡流義乗二男)→細川家家臣吉田家初代・縫殿助と続く名門である。
家紋は言わずと知れた「大友杏葉紋」である。
■吉田次郎左衛門は、(南東20-12)吉田二兵家の4代左内(二郎左衛門)もしくは、5代十郎助(善右衛門・二郎左衛門)のいずれか?
家紋は「陰陽二文字紋」及び「丸に三つ柏紋」
■吉田伝右衛門は、(南東20-7)吉田傳衛家の4代目傳右衛門(太郎兵衛)である。養子の閏之助は「肥後菖蒲」の祖。
家紋は「左巴紋」
■吉田小次郎は、(南東20-4)吉田権三家の7代目である。家紋は「隅切り角に左巴紋」「隅切り角紋」
■吉田平右衛門は、(南東20-2)吉田長四郎家の6代目。家紋は「隅立角に左巴紋」上記権三家と親族か?
■吉田松立は、御医師で(南東56-10 医)吉田英記家の4代目である。家紋は「違い角」
■吉田五郎左衛門は、(南東20-1)吉田孫四郎家の7代目。家紋は「隅入り角に■■紋」
■吉田内藏次は、(南東20-3)吉田三郎家の4代目である。家紋は不詳。
■吉田嘉右衛門は、(南東20-5)吉田 学家の5代~8代が同名であり家禄も同じであることから特定し難い。
家紋も不詳。