津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■白い花、観察記録

2022-05-20 09:15:52 | 徒然

  

         

 以前「散歩土産」で頂戴してきたザクロ状の種が沢山入った3㎝ほどの玉を、大きな鉢に植えてみたら、数日前から花が咲き始めた。
丈は65㎝程に伸び、10㎝ほどの鞘からさらに10㎝ほどの高さで花をつけている。直径も10㎝ほどでまことに短命な花で昼過ぎには萎れてしまう。
花は10センチほどの高さと書いたが、実は鞘の中で見えない部分があり実際は20㎝ほどの長いものである。右下の写真が咲く前の状態、これが咲くのは明後日くらいか?
今朝ほどは二輪が咲いている。左下の写真の右下の部分、頭を下げているのが花が落ちた後の鞘の部分、これがあの丸い種を沢山抱えた玉になるらしい。
実際は相当数の目が出たのだが、元気の良い二株を残して抜いてしまった。この位が九寸鉢には丁度良かったようだ。
厚さが増す今から、早朝の白い花はすがすがしい。
いろいろ調べているが花の名前がまだ判らないでいる。

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■御侍帳・家紋から考える(19)

2022-05-20 06:48:44 | 家紋

 忘れていた訳ではありませんが、「御侍帳・家紋から考える」を再開することに致しました。
最終回は■御侍帳・家紋から考える(18)でしたから、1年11ヶ月ぶり、19回目としての再開

        

                                                                    新・肥後細川藩侍帳【か】の部

河田大助 (南東19-7)河田平八家の3代目である。初代吉大夫は(南東63-102 *)河田源十郎家の4代目で郡奉行
 等を務めた八右衛門の子で分家したものと思われる。兄と思われる八右衛門の子・源十郎は「御知行被召上候 明和六
 年十月 高百五十石 貶」という記事が残る。何があったのか絶家となった。そのために弟の創家が認められたのか、
 不詳。家紋は「隅きり平角に毬挟み紋」

河井藤兵衛 (南東17-24)河井藤八家の4代目である。天明六年八月~文化九年二月にかけて、阿蘇南郷・合志郡・宇土
 郡・山本郡・合志郡などの郡代を務めた。家祖は阿部守殿助と有る。御小姓組に属し「寛文四年六月・御侍帳」では
 「有吉有吉内膳組 五百石」と有り、又 「寛文十二年八月二日 乱心」ともある。なにが起こったのか不詳。
 そのため、河田姓となったか?。家紋は「角に松皮菱紋」

河本小四郎 (南東59-11 茶・鷹・馬)河本眞左衛門家の4代目である。5代目以降は、御馬方や馬術師範を拝命して
 いるが、小四郎については現況不明(先祖附未確認)家紋は、「丸に木文字紋」か?

川崎作之允 (南東17-20)河崎作十郎家の4代目・作之允重光、正時(養子 実・塩山仁右衛門末子 作左衛門)
 (1)二百五十石 御番方七番組御小姓組五番 屋敷・内坪井(2)歩頭 二百五十石とある。
 家紋は 「 」「 」

兼松七右衛門 (南東19-8)兼松市之允家の四代目七十郎(七右衛門)か?宝暦12年の「兼松七十郎拝領知行」が残るが、
 代々七右衛門を名乗っており、確定できない。家禄800石だが、その出自については現況勉強不足にて不祥。 家紋についても「 」

兼坂藤右衛門 (南東19-4)兼坂淳次郎家の三代目、藤右衛門・定輝、正徳三年六月(御弓廿挺頭)~正徳五年十月
 中小姓頭、正徳五年十月~享保八年 小姓頭、享保八年~享保十七年六月 番頭、享保十七年六月~延享三年八月 用
 人を務めた。700石。家紋は「隅立て角に流鼓紋」

兼坂甚次郎 詳細不明兼坂藤右衛門一族か、 家紋「四つ目結」

金守彦助 500石とあるから、(南東19-6)金守(森)彦十郎家の人物であろうと思われるが、初名か、詳細不明。
 家紋は「毬挟み紋」

金森七太夫 (南東17-19)金森七九郎家の人物であることは間違いないが、人物の特定が出来ない。
 家紋は「加賀梅鉢紋」か?

金津孫四郎 ガラシャ夫人に殉死した金津助次郎の嫡男の家・【丹後以来】(南東18-17)金津十次郎家の人物に間違いないと思われるが、 7代孫太郎・正澄のことか?
 家紋は「将棋紋(ふ駒紋)」だが、ガラシャ夫人に殉死したことによる忠興公からの拝領紋と言われる。「一名・金成り紋」
 今一つは助十郎家同様「一文銭」紋である。

     助十郎---+--助次郎---+--助次郎---十次郎---十次郎---十次郎---貞之允---孫太郎----略(十次郎家)
         |     |  
         |     +--又助----左次兵衛---又助---------略(又之允家)
         |
         +--又十郎----助十郎----又十郎----助之進---又四郎---助之進---文次---助十郎---略(十郎家)

金津助十郎 ガラシャ夫人に殉死した金津助次郎の次男の家・【丹後以来】(南東18-18)金津十郎家の8代目である。
 家紋は「丸に今文字紋」及び「一文銭紋」である。
 「将棋紋(と駒紋)」だが、忠興公からの拝領紋と言われる。「一名・金成り紋」
 *ご子孫からご連絡をいただき、この紋は次男家が拝領されたとの事である。 5:25加筆修正

金子貞次郎 (南東16-2)金子五象家の8代目、御番方・斎藤勘助組 百五十石。家紋は「丸に三角」?(正式の名前をご教示いただきたい。)

金子作助 (南東16-24)金子惣十郎家の6代目もしくは8代目が特定できない。家紋についても不詳。(  同上  )

上月八右衛門 (南東18-3)上月半下家の7代・小吉郎(八郎右衛門)八右衛門トアル (1)御使番 九百五十石  (2)千石取り
 寛政十一年七月~文化三年十二月 中小姓頭、文化三年十二月~文化四年十一月 小姓頭、 家紋は「 」

上月十郎大夫 (南東18-4)上月 寿家の 5代目・十郎(十郎大夫・平次右衛門) 御物奉行 五百石である。
 家紋は「丸に石畳み紋」?

上妻軍太 (南東16-3)上妻覚三家の6代目、家紋は「隅立角に傘」「丸に滕(ちきり)紋」 

上妻新右衛門 (南東16-4)上妻新右衛門家の4代目、 家紋は同上

上林軍助 【丹後以来】の上林甚十郎家(南東16-6)の7代目・猶次郎(軍助)である。家紋は「林文字紋」今一つは良くわからない。

上林源太左衛門 田邊城に籠城した井沢助兵衛を家祖とする(南東16-5)上林甚九郎家の10代目・次郎大夫(源太左衛門)御鉄炮十挺頭 旧知二百石 である。家紋は「隅きり角に林文字紋」今一つは良くわからない。    

  

     

  
     

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