津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大きな間違いと大きな収穫

2022-05-23 15:01:45 | 先祖附

 今朝UPした■御侍帳・家紋から考える(21)に於いて失敗をやらかしてしまった。
本来は「氏」とすべきところを「関氏」としたため、該当者がないことにしてしまった。お詫び申し上げて訂正をさせて戴いた。
「か」の項でまとめられているから、「かん氏」であろうと考えた。ひょっとすると「せき氏」かもしれないと思い調べたが弥十郎成る人物がいない。

 今日の昼食後、足を投げ出して椅子で午睡をしようと思い、うとうとする中でそのことを想っていた。
ふと漢字の読み方ではなく、漢字そのものを間違えたのではないかと思い至った。
原本である「熊本藩侍帳集成」の「御侍帳(家紋入り)」を改めて眺めていたら、私が「関」とよんだ字は「」という字の間違いだったことが判明した。
そしてなんと私の「新・肥後細川藩侍帳」においては、この「閌」氏が脱落していた。これは私の大チョンボである。
すみやかに原本を修正したいと思う。
午睡どころの騒ぎではなくなり、まずは「家紋から考える(21)」を急遽修正した。

 漢字の間違いではないかと思ったのは、もし「関」でなけれはと考えた時「閌」ではないかという思いがあった。
実は、私が独立する前に勤めていた建築事務所で、担当ではなかったが、設計したクリニックのオーナーが「閌」様だったことを覚えていたからだ。
大変珍しく思いよく覚えている。「門構えに亢」で「こう」と読む。名前由来ネットによると全国で10人くらいだというから希少種といえる。意味は「高く立派な門。転じて、高く大きいさま。」とある。
そんな貴重な名前が細川藩にあった。そしてクリニックの医院長はまさしくそのご子孫であろうことは間違いなかろう。

 本当に気付いてよかった。侍帳の訂正が行えたことは大いなる収穫となった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■菖蒲のお茶会に想う

2022-05-23 12:32:46 | 徒然

 昔取った杵柄で、お茶会に出かけてみたいと思うことがある。
三千家さんには立礼式という、いわゆる椅子式の茶法があるが、私が勉強した肥後古流にはそれがない。
ないが故の古流であり、肥後古流が古利休流そのままの作法を伝承していると所以でもある。
歳を取って膝を悪くし、なおかつタタミの部屋がない生活をしてきたから、もう何年も正座なんてしていないし、出来そうにない。
そうなると、茶会などとても出かけることはできない。
 座法は小笠原禮法が幕府に於けるお規式などで取り入れられると、「正座」となり、ヒエラルキー上座に対する儀礼となると、一般の人たちもこれに倣い固定化してきた。
大河「麒麟がくる」で光秀の母親役を演じた石川さゆりさんが、立膝で座るという時代考証を目の当たりにして、かなりリアルになったものだと感じた。
男性の胡坐(あぐら)がなくなり正座が慣例化されると、武士はいわゆる「居合い」の為の座しかたを考えるようになったという。
つまり指を重ねて座るということは厳禁で、いつも右足の親指を曲げて、右ひざを起こす態勢を作れるような座し方である。
右の片膝を立てると「居合い」ができる。これが武士の座り方であるとお聞きした。
肥後古流のお茶は武士の茶法などとと言われる。茶会で「足がしびれる」などという事は、あってはならぬ事で、修行がが足らないという事になる。

 かっては、お茶も胡坐であった時代がある。茶室が出来、武士は刀を刀掛けにおいて、小さな躙り口から茶室に入らされ、武士も町人もこの世界では分け隔てなく正座で茶を楽しむという、平等を求めるこの仕掛けは、茶の宗匠といわれる有力町人たちの企てであろう。
しかしながら利休を始め、茶人で命を落とした人は結構いる。茶道が許された者たちの特権であった時代から解放されると、大名や有力武士たちは競って茶人のもとに入門するという時代が到来すると、そういう作法を受け入れなければならない。そういう意味では江戸時代に始まりは平和な時代への入り口であったとも思われる。

 6月の第一日曜日には八代の松井家の松浜軒では例年「菖蒲の茶会」が催されていたが、こちらもコロナの影響があったろう。
「未来の森ミュージアム」に出かけて、そしてお茶会に参加するというのもなかなか良いと思うのだが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■御侍帳・家紋から考える(21)

2022-05-23 06:54:37 | 先祖附

                                             

                                                                              新・肥後細川藩侍帳【か】の部

■萱野宗拝は、御茶道・萱野家の関係者であると思われる。この萱野家は家祖・甚斎が古田織部の弟だと伝えられる。旧姓古田氏。
 200石を領している処を見ると何代目かの当主とも考えられるが、この名前の人物は見受けられない。
(南東59-2 茶・鷹・馬)萱野宗保家の5代目で、分家司馬太の娘を奥方とする宗羽(養子 実・水足左助四男 甚斎)ではないかと推察される。
   萱野正信 五才の時正勝養子となる。幼名庄助。安永三年古市宗円同席にて「極真ノ台子」を調ぶ。
   安永九年家督。寛政六年御茶道頭。文政三年七月没。室・同氏司馬太女。家紋は「丸に丁子右二つ巴紋」である。
 この人物であれば、下記分家の尚太郎とは室を通して義兄弟となる。

■萱野尚太郎は、(南東19-5)萱野司馬太家の3代謙堂のことである。の祖・甚斎の孫市平を初代とする分家であるが、
 代々学問の家として知られる。
 萱野謙堂 名は熈載字は汝庸、尚太郎と称し、謙堂又は英雪と号す。中村雄飛と共に肥藩の二哲と称せらる。最も詩書を善し、
 射、槍、剣、調馬、體術及び茗理、歌道、蹴鞠、謡曲、挿花に至るまで其堂に入る。食禄二百五十石、大阪留守居役たり。
 文化五年正月廿一日没す。享年五十。墓は大阪法雲寺にあり。家紋は「丁子右二つ巴紋」である。  

■萱嶋英介は、(南東17-10)萱嶋儀十郎家の7代目の栄助だと思われる。八代御城付八代御番頭組 百石。
 家紋は「隅立四つ目結紋」である。

■可児弁助は、【青龍寺以来】の家で(南東16-7)可児小七郎家の8代目弁次かと思われる。家紋は「子持ち角に左巴紋」である。

■可児次左衛門は、【青龍寺以来】 (南東16-9)可児清蔵家の6代目・兵内(次左衛門)である。上記・小七郎家との関係は良くわからず、家紋も「 」も全く異なる。

■垣屋弁之允は、(南東16-16)垣屋 保家の5代目「御備頭御留守居大頭組御小姓支配御奉行触御物頭列・御小姓支配定府・大広間御取次
 百五十石」とある。代々定府の家か。家紋は「五つ木瓜紋」

■梶原太郎助は、(南東17-6)梶原源三家の代目・永吉(太郎助)御番方組脇・西山大衛組 三百石
 家紋は「丸に切竹矢筈十字紋」「隅立角に八つ矢筈紋」。大河に登場している梶原景時の梶原一族の家紋も「丸に並び矢」関係性が伺える。  

■甲田茂右衛門は、(南東17-3 この項)甲田 豊家の7代目。家紋・・不詳

■河添善大夫は、(南東61-17 一代御中小姓)河添波文家の6代目である。家紋は「隅切り角に違い鷹羽紋」である。  

甲斐伝右衛門は一代限りか?「細川藩家臣略歴」には名前が見付けられない。家紋は「松笠菱紋」である。

■香山俊助は、(南東17-5)香山三弥家の 4代目、文化元年頃~ 阿蘇南郷郡代、文化十二年四月~ 玉名郡郡代
 文政八年十月~同十一年九月 高橋町奉行。家紋は「隅立角に釘抜き紋」  

■香山庫蔵についても「細川藩家臣略歴」はヒントを残してくれていない。しかし「肥後人名辭書(全)」は次のように記す。
 香山庫蔵 名は正房、調馬師たり。騎を其門に学ぶ者凡そ千余人に及ぶ。文化六年二月十二日歿す。年七十七
 どうやら御馬方(南東59-12 茶・鷹・馬)香山新八家の一族であろうと思われる。家紋は「隅切り角に吉文字紋」 

■菅 市之進は、(南東17-18)菅九十九家の5代目、新之允とも。家紋は「梅鉢紋」、今一つは「丸に桜紋」か?  

■菅 十助は、(南東17-17)菅 十洲家の六代目、家紋は九十九家と同様か?  

■門池弥五右衛門は、(南東17-14)門池群蔵家の7代目、家紋は「杏葉紋」もしくは「茗荷紋」。先祖は田中筑後守(吉政)の家来で、1,000石取りであったらしい。
 先年、外人の旦那さんと来熊、先祖探しのお手伝いをした事を思い出した。  

■門池亀之允は、同上分家(南東17-15)門池三七郎家の4代目、故に家紋も同じく「杏葉紋」  

■角川喜三兵衛は、【丹後以来】以来の (南東17-2)門川大平家の7代目である。
 家紋が面白い。「替り菊水紋」と仮にしておこう。

■蟹江寿右衛門は、(南東16-13)蠏江新次郎家の7代目で宇七郎・七大夫とも。加藤清正家臣・蟹江氏の末か。
   蠏江観遊 名は昭明、字は伯融、壽右衛門と称し、観遊と号す。藩に仕へ穿鑿頭、時習館訓導を勤む。禄百石。
        文久三年五月十七日没す。年九十三。墓は本妙寺中妙性院。家紋は「本文字紋」か?

関 弥十郎については、「かん氏」「せき氏」共に同名の人物が特定できない。
 まずは訂正とお詫びをしなければならない。この人物は   閌(こう)弥十郎氏である。
「新・肥後細川藩侍帳」において、「か」及び「こ」の項のいずれにも記載がないことが判明した。
 但し出典である川口恭子氏の「細川家家臣略歴」にはちゃんと記載がある事を確認した。
 偏に当方の手落ちである。現在原本のチェック・修正をしているので反映させたいと思っている。
 但し、当サイトでの公開は少々時間を頂戴したい。            5月23日14:30修正
 閌 弥十郎は、(南東17-26)閌(門構えに亢)半家の7代茂久(弥十郎・十郎助)のことである。
   家紋は「丸に一つ茶の紋」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする