津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ガラシャの菩提寺・秀林院の消滅

2022-05-08 09:56:56 | 歴史

 細川忠興にとって親族の死に一番に直面したのが、室のガラシャであった。
そんな中でもその死を悲しむ暇もなく、戦い続けた。ガラシャの死、幽齋の籠城、忠興の奮戦などがあいまって慶長五年の一連の戦いは東軍の勝利となった。
忠興は行賞として豊前30万石に封じられた。忠興はガラシャの為に盛大な葬式を営み、元和年中菩提寺・秀林院を建立した。
その場所は、小倉の馬借町にあった小笠原家の小笠原忠真室の菩提寺・嶺高寺(その後移転)であり、まさにかってのガラシャの菩提寺・秀林院があった。
現在の北九州市立医療センター辺りだとされるが、このことであろうか。

細川家の熊本移封に伴い当然秀林院も移転建立されたものと思われるが詳細が判らない。
綿考輯録をひも解くと次のようにある(巻36-出水叢書第四巻・忠利公‐上p450)

  ■竹の丸之広間秀林院ニ引而書中見候、こけらふきに可申付候事
     此御書を以上考候ヘハ、御先代より竹の丸にも少々御間取有之たるなるへし、(中略)
     元和年中に豊前ニ秀林院被建置候を、当御国に御引被成候と聞へ候へ共、其年月・寺地之所柄停廃の事もわかり不申候、
     真源院様御代寛永十九年、護国山妙解寺御建立被成候事を、正保之比に成候而ハ御後悔被遊候との語伝、乍恐深き尊慮
     被為有候かと奉存候、御代々之御菩提寺ハ泰勝院一ヶ寺にても可被為済物をとの思召ニ而、御国のため御家の爲、後年
     累とも可被筋ニ少にても御省き被遊度との御意を、奉伺たるとの申伝へも有之由、強て考候に、正保二年三斎君御逝去
     後、八代の泰勝院を熊本に御合せ被成候砌なと、秀林院をも一ッの御よせ被成候而、院地ハ御こほち被遊候かと奉存候、

忠興の父・幽齋の没年は慶長十五年八月廿日、「京都天授庵及び小倉に葬る。肥後入国の後分骨を立田山に移し、寛永十四年七月十一日寺を建立して泰勝寺と号す」と細川家記は記す。
幽齋夫人・麝香は元和四年七月廿六日江戸没、お墓は幽齋とおなじである。

ウイキペディアによる解説
     泰勝寺は、小倉藩主・細川忠興(三斎)が父・幽斎の追善のため、慶長11年(1611年)3月に小倉に泰勝院[4]を建立した
     のがその始まりで、同院は後に熊本藩主・加藤家改易され、寛永9年(1632年)に細川家が同藩へ転封されるに合わせ
     て、八代城に隠居した三斎により小倉から八代へ移された[1]。一方、熊本城主になった忠利も、寛永14年(1636年
     に立田山の山麓に祖父・幽斎と祖母・麝香の方および母・玉子を祀る寺を建立し、これも泰勝院と命名した[1]
     忠利死後、藩主の座を継いだ光尚京都妙心寺より大淵玄弘和尚を招いて泰勝院住職とし、正保3年(1646年)には、
     玉子の隣に三斎の墓を営んだ[1][5]。光尚はその後、八代の泰勝院を廃すると立田山の泰勝院に併合して「瑞雲山泰勝寺」
     と改め、さらに綱利の代に山号を「龍田山」に改称した[1]

泰勝寺跡を訪れると、「四つ御廟」と称する、幽齋・麝香、忠興・玉(ガラシャ)の四人のお墓が並び祀られているが、いずれも同じ大きさの同じつくりの御廟であり大変美しい。
光尚は父忠利のために妙解寺の御廟を作った後、「後悔した」と書き残されている。「泰勝寺」一寺で良かったのではないかという後悔の念であろうか。宇土細川家系の10代・斉茲や11代・斉樹、13代・韶邦、最後の藩主・護久などが泰勝寺に並ぶのに、少々の違和感を感じるのは私だけであろうか。

いずれにしろ、秀林院は消えた。寺地が特に存在するわけでもなく、竹の丸の一角に小さなこけら葺きの御御堂があったのだろう。それは寛永九年末の肥後入国から、寛永十四年に泰勝寺が建立されるまでの約五年間である。

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