津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■創作(一)桜守

2022-05-04 13:11:50 | 創作

 いつも散歩をしている自衛隊通りの桜並木の内のかなりの数が開花を待たずに切り倒された。
根元は洞になっているが、殆どの木がその祠の中からだったり、脇からだったり新しい芽を吹いて5・60㎝程の高さに成長している。
こういう再生の方法があるのだと改めて気付いた。
そんな状況を見ながらいろいろ妄想を膨らませ、次代小説仕立てにして一文を書いてみた。大いに推敲を重ねなければならないが、出来立てのほやほやである。
ご笑覧いただきご批判を頂戴したい。


           桜 守
                                         津々堂

 少右衛門は台所に回ると、少しひびが入って水漏れがするようになった茶碗に水を汲み、二杯ばかり続けざまにのどを潤した。
下働きのお霜が奥に声を掛けると、五歳に成った孫の小太郎が走り出てきて、膝をつくと「爺様、お帰りなさいませ」と挨拶をする。
嫁のお佐幾は掃除でもしていたのか、前掛けを外しながら出迎えた。
少右衛門は久しぶりに、かって住んだ屋敷の付近を尋ねてみたのだ。ほぼ一里ほどの所にあるその屋敷というのは、昨年亡くなった息子庄兵衛の役宅で、今は跡役の祐筆伊藤孫大夫の屋敷となっている。
代々庄兵衛を名乗るこの家で少右衛門だけ名乗りが違うのは養子だからである。
そして少右衛門から祐筆を勤め、庄兵衛は二代目である。
住み慣れたこの役宅のすぐ裏手にある追分に、一本の桜の木があって、大きく枝を張って満開になると近郷の多くの人々が眺めに来て賑わったものだ。
その桜の木が今年はその時期を待たず、思いがけぬ春先の大風に多くの枝が折れ、幹も途中で折れて、とうとう根元から切り倒されたと聞いたからだ。
村人らは「庄兵衛様の跡を追うたか」と噂しあった。

「如何でござりましたか」と嫁のお佐幾が尋ねる。
「うん、見馴れたあの追分に桜の木がないのは、なんとも不思議な景色じゃ。しかしのう、根元は洞になっておったが、脇からもう若い芽を出して、そして高さも二尺ばかりになって居った。」
「そうですか、枯れずに育てば宜しゅうございますなあ」お佐幾は膝の上で手を揉みながら応えた。
「あの桜は死んだ庄兵衛だと思えてのう、涙が出てしもうたぞ。しかし、あの若々しく生えてきた木はあれは小太郎じやと思えてな。根はしっかり致して居る。あと七八年もすれば背も高かく太うなって、又花もつけようぞ。」
一年前、風邪をひいて寝込んだ庄兵衛は床上げすることなく帰らぬ人となった。誠にあっけないことで嫁の佐幾はしばらくは寝込んだほどの憔悴ぶりであった。
「儂も小太郎の為に、まだまだ元気で頑張らねばならんと、あの木を眺めて思うた事よ」
「ほんにお義父上さまには、いつまでもお元気でこの家のご先祖様の事など、小太郎によう教えていただかなければなりませぬ」
今ではすっかり元気になって、五歳になった小太郎を生きがいに思うている。
「そうじゃ、剣術も学問もしっかり教えて、また庄兵衛の後を継いで、殿様の御為になるようお仕えしてもらわねばならぬ。あと十年で元服ぞ、小太郎一緒にがんばろうのう」
小太郎は「はい」と元気に返事をした。
「小太郎、御父上が亡くなられた時に、殿様は涙を御流しに成られたそうじゃ。そんな父上を誇りに思うてのう・・・」
そんな少左衛門の言葉にお佐幾の目も涙で潤んでいる。小太郎はそんな母を見上げて「がんばりまする」と健気に答える。
「庄兵衛が死んだあと、殿様は儂にまた祐筆役を勤めよと仰せであったが、このお役は若い者建ちにお任せに為さりませと申しあげて、殿様の書物藏の御番を仰せ付けられたが、これは年寄りには有難い御役で、いろいろ見たこともない書物を拝見できて有難い事じゃ、いろいろ小太郎にも教えてやれそうじゃ」
「佐幾にもほんに苦労を掛けるが小太郎の為に堪忍してくれい」と、佐幾を労わった。
「なにを仰せで御座りまするか。私は庄兵衛どのに小太郎を命と思うて育てますると誓いました。お義父上さまにもお力をいただき、庄兵衛どのの見事な跡取りとなりますようお助け下さいませ。」
「なにを申す、儂にとっても小太郎は大事な/\孫じゃ。あの桜の木が花をつけるころには、殿様にお目見えが出来よう。殿様も待って居ると仰せであった。」
お佐幾は小太郎を膝元に引き寄せると、「有難いことで御座います」と言いながら、そっと目頭を押さえた。
小太郎が不思議そうに見上げて小さな手でお佐幾の頬をなでた。
「そうじゃ、殿様にお願いをして、そこの小川の脇に桜の苗木を頂戴して植えてはどうかのう。
明日殿様にお願いをしてみよう。あそこなら田の仕事に通うここらの者も喜ぶであろう。うん、そうしよう」

 数日後お庭方の者が四尺ばかりに育った苗木を二本植えて呉れた。
少左衛門は非番になると、裏の竹山に登って数本の竹を携えて下りてきては、下男の音八に加勢をしてもらい、それぞれに垣を廻した。
そして毎年の手入れも怠りなかった。

 小太郎がお目見えをすませ前髪を執したころ、追分の桜は見事な花をつけた。村の人々は勝手に「追分桜」と呼んで手入れをしていたが、殿様の御耳にも達すると「其方たちにとっては庄兵衛桜じゃな」と仰せられた。
お佐幾は、そのことを聞いてて身を震わせて泣き崩れた。
「思うた通りじゃ、小太郎、そなたの父上は桜に身を替えて見事にこの世に戻ってきたぞ」と、小太郎の初々しい月代姿の肩を叩いた。
そして小川の脇の桜も、これに負けじと花をつけた。少左衛門は密かに、「この桜は小太郎桜じゃ、佐幾の桜じゃ」と心に想うていた。
少左衛門は桜を眺めながら、亡き庄兵衛に語り掛ける。
「庄兵衛、来年は小太郎に家督をゆずり儂も隠居が出来そうじゃ。そしてまた苗木を頂戴して、川沿いに十本も十五本も桜を植えてみようと思うておる。桜守じゃ。何年かかるかわからぬが、殿様が参勤で御發ちの頃には桜の花でお送り申し上げたいと思うておる」そして、
「庄兵衛、お佐幾は気が早うてのう、もう小太郎の嫁探しを始めおったぞ。小太郎はまだ十五になったばかりじゃ。里の父や弟にも頼んでおりますが、お義父上も良い人を見つけてくださいませと申して居る。それでの、心得た、お佐幾のようなおおらかで元気な美人を探そうぞ、これはなかなか見つかるまいて・・・成就するには桜と同様十年もかかろうぞと云うておいた」
「そうしたら庄兵衛、お佐幾のやつが儂の背中をどつきおったぞ。もうすっかり実の娘のように思えるぞ」

 非番の一日、少左衛門は寝起きする離れの六畳の間で書見をしていると、お佐幾が襖越しに声を掛けてきた。
「お義父上様、お霜が早起きして花見団子を作ってくれました。音八も一緒に五人そろうて庄兵衛殿の桜を見に参りましょう」
少左衛門は思わず膝を叩いて、「おう、それはよい。行こうぞ行こうぞ」と立ち上がった。
野袴を着けると、少左衛門はポンと帯をたたいて小脇差を取ると歩み出した。満開をむかえ、桜吹雪になっているかもしれないと思いながら・・・

                    (この項・了)

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■忠利公肥後入国に際し特に随行を命じられた人たち

2022-05-04 07:27:13 | 史料

 肥後54万石の太守となった細川忠利は、寛永9年12月6日に小倉を出発し翌7日に熊本城に入城した。
これに先立つ11月18日には、特にお駕籠に随伴を命ずる人たち24名が三家老から公表された。
豊前から肥後への移封にあたり、離国する者も見られる中、これを留めんとする忠利の強い意志が見て取れる。
いずれも名だたる出自の人たちであり、大国肥後に於ける外交に欠かせぬ人材である。

   津川数馬殿         從四位下・左兵衛督-斯波(津川)義近の嫡流の曾孫
   津川四郎右衛門殿      同上津川義近の二男・豊前にて召し寄せられ客分・知行千石 後数馬を養子とす
   松野右京殿         大友義統の嫡男・二千石         
   細川七左衛門殿       細川典厩家8代目の弟の子       
   楯岡孫一郎殿        豊前に配流され後死去した最上光直の嫡男
   槙島長吉殿         三斎付・槙島云庵( 昭光)の一族か、「於豊前小倉御侍帳」「肥後御入国宿割帳」三百石         
   氏家志摩殿         美濃三人衆氏家卜全の子、信長・秀吉に仕、近江国一万五千石領知、代官所五万石預
                 関ケ原役西軍に属、高野山立退、其後家康内書を賜・赦免、慶長六年忠興に召寄られ
                 無役六千石、備頭
   松野半斎老         大友左兵衛義鎮(入道宗麟)三男 義盛、田原親盛 右衛門尉 パンタリオ)  
                 慶長十一年、豊前にて召し出し千石         

   南条左衛門尉殿       元信 (藤八郎 後・大膳 以(意)心 細川興秋女鍋-婿)頭衆 三千石  
   筑紫左近殿         筑紫広門三男 左近・重門 馬廻組四番 七百石 室・細川忠興弟幸隆女・兼
   津田三十郎殿        織田上総介信包 (織田信秀四男・信長弟)の孫、織田民部少信重(伊勢林藩主-改易)の子、
                 御物奉行 三百石 後、御使番衆 千石 (真源院様御代御侍名附)

   三淵内匠殿         細川幽齋の実兄・三淵藤英の四男
   長岡左膳殿         細川幽齋の甥・三淵家初代重政の嫡子(二代)長岡右馬之助之直、室は三淵内匠女
   松野長蔵殿         出自不明、大友系松氏の一族か
   谷 主膳殿         谷下総子、丹波山家邑主衝友の女婿、御馬廻衆添頭・二千五百国(於豊前小倉御侍帳)(肥後御入国宿割帳)      
   薮 図書殿         正成、薮内匠12,000石の子、中村一氏家老近藤左近養子、同家断絶後牢人 元和三年忠興に仕、
                 牢人分にて知行千五百石 内匠歿後知行召上られ、新知二千石 本姓藪に改
   薮 市正殿         正直、図書弟、内匠歿後兄一同に知行二千石 忠利代番頭、承応二年十一月八日歿
                 妻・長岡伊賀守女
   筑紫大膳殿         筑紫一族か、馬廻組二番組・組頭 千石(於豊前小倉御侍帳)(肥後御入国宿割帳)
   西郡刑部少輔殿       西郡大炊 清忠、天正年中於丹後被召出五百石、鉄砲三十挺頭、勢州亀山城攻の戦功五百石、
                 岐阜・関ヶ原・福智山の戦功によつて千石加増、都合二千石、御小姓頭御番頭、

   長岡藤十郎殿        山名藤十郎とも、細川幽齋の弟・三淵好重の男・宗由、三淵家初代の重政の四弟、豊前に於いて500石拝領、
                 別家を興したが息・四郎兵衛の代二絶家したか?
   田中又助殿         豊臣家五奉行の一人、近江水口五万石城主長束(水口)大蔵大輔正家 の子・半左衛門
                 水口在城の折り細川藤孝の女・伊也の娘(徳雲院)を娶る。のちその故をもって忠興に召抱えられ知行五百石。
   牧 善太郎殿        不詳
   平野源太左衛門殿      平野長泰の甥、三百石(肥後御入国宿割帳)人持衆并組外衆 千石(真源院様御代御侍名附)
                 (真源院様御代御侍免撫帳)   

   中村靭負殿         金春流能楽師、伯耆米子十七万五千石の城主・従五位下でぃきぶ少輔・中村一氏の孫、政長 三百石
                (肥後御入国宿割帳)
                 寛永六年九月廿九日、三斎公より忠利君江被進候御書之内(抜粋)
                 「靱負下之関ニ居申候由候間、よひ寄度候つれ共、つてもなく候ゆへ、其方下を待かねて居申候処、
                 靱負所より福王十蔵を差越、見廻度由、申越候、満足候而、一両日先ニ迎を遣候、定而頓て可来と存候、(以下略)」
                 息伊織に至り千石、

 それぞれ小姓弐人・持鑓壱本・馬取二人・くつ持壱人・さうり取壱人のみをつれて随い、これらの人の鑓・弓・鉄炮・鋏箱などは別に従うように定められた。
処が当日の名づけを見ると、出入りが見受けられ、変更されている。

   

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