津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■左肩・二の腕・手の痺れ

2022-05-07 16:18:04 | 徒然

 今朝から左肩が痛くて、おまけに二の腕にも違和感があり、手までも痺れがきました。
これは天下の一大事とばかりにロキソプロフェン・テープを貼ってみましたが、一向に改善の兆しがありません。
コロナの3回目のワクチン接種以後、ずっと違和感は続いているのですが、関係ないとは思いますが気持ちの良いものではありません。
寝ていても左へは寝返りを打たないように気を付けていますが、無意識に寝返りしては痛みが来て、慌てて向きを変える有様です。
少々タイピングにも影響があり、あまり長時間は出来なくなりそうです。
いろいろ資料整理のために頑張っている中、タイピングが出来なくなるのは致命傷です。
この際と思って、ロキソプロフェン・テープを二の腕とか、手の甲にも張ってみました。
傘寿ともなれば仕方ない事なのでしょうか。明日は、けろりと治っていることを願うばかりです。

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■綿考輯録が記す「お花畑」のこと

2022-05-07 06:50:13 | 史料

 今日私たちが拝見する「御花畑の絵図」は時代を重ねる中で、建て替えや建て増しが繰り返され、またお庭等が整備されたことは、想像するに難くない。
綿考輯録が示す、肥後細川家草創期の御花畑に於いては、まだ太守と家臣の交流が温かい関係であったことが伺える。
また各御部屋の使い方などが知られて非常に興味深いものがある。

「竹の垂木の所」とある建物は、加藤時代矢部の愛藤城を破城となし、大広間を解体しここに移築したという話が残る。
その建物であることが伺える。「竹の垂木」造ということは、屋根は勾配のきつい藁ぶきであったろう。
後には銅板葺きに葺き替えられたが随分後の事である。


                                               竹の垂木
 御花畑の御館も加藤氏の時より有之候、佐野の御間より御広間・御次・御台所等ハ先代作事也、すへて竹たる木の所ハ先代のまゝにて候よし、竹の御間ハ忠利君被仰付候御居間也、鹿の御間ハ光尚君御家督之御祝儀ニ、三斎君を御饗応被成候爲ニ被仰付候、
忠利君ハ中柱の間を常の御居間に被成候て、長いろりにて御料理等被仰付候、夫故ニ中柱の北の方竹椽、前々ハ広く有之、
其御時代ハ御家老并人持・御物頭以下迄も、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々の内、何某々々今朝御相伴仕候へなと被仰付候由、或時ハ朝の内田畑へ御出、御鷹つかひ被成候ヘハ、追付戻る程に待て居候へ、鴨を料理して可振廻なと御意にて、御帰之上右之通中柱の御間にて御相伴被仰付候、日々大方右之通にて、何もゆる/\と御噺被遊候由也、惣而其御代ハ手軽キ御事にて、御花畑の表玄関板敷はなく箱段はかりにて、其下ハ竹簀を敷て有之候、忠利君・光尚君・綱利君の御代始め迄ハ右の通にて候か、其後板敷被仰付候由、右同御家老間なと申も無之、御家老ハ御弓の間に居被申、御小姓頭・御側物頭なとハ御鑓の間ニ居、御小姓頭の部屋なと云も無之、同物書とてもなく、日記等ハ銘々ニ付置、此日帳爾今残り有之候、以下略


又、加藤忠廣代には坪井川をまたぎ竹之丸への橋が架かり「廊下つづき」であったとされる。(綿考輯録・巻36-出水叢書p450)
    或語伝に、忠広之時にハ御花畑御殿坪井川のうへを廊下つゝきにて、御城より御往来つかへさる御かまへなり、
    それゆえ妙解院様御本丸御住居之内も、御花畑御広間に御馬廻衆より、常にかわる/\御番仕候由、御式台も
    さつといたしたるとりふきにて、拭いたなともなく、竹簀を敷有之たるなり(虚実ハはかりかたし)

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