細川護前は細川斎護の嫡男である。父に先んじて23歳の若さで死去した。
斎護は宇土支藩の藩主(立政)であったが、従兄弟にあたる本家の斎樹が重篤になると養嗣子となった。
本家に入る前に男子が生まれているが、これが護前(雅之助)である。
雅之助は8歳であったが、宇土細川家で大夫人と称賛される祖母・栄昌院(細川立室・老中土井利厚女)の手で育てられている。
大変やんちゃな子であったらしく、お付きの小姓の口に虫よけの胡椒を塗りつけ、小姓は余りの辛さに泣き出してしまった。
これを見た栄昌院は、護前の口中に胡椒を入れてその非を体感させ、その日は食事もとらせず押籠にしたという。
(女性たちの書いた江戸後期の教訓書 柴 桂子著)
そんな雅之助も13歳に成り嫡子と認められて本家に入り護前と称する。
18歳で細川新田藩の細川利用女・茂と婚姻、その3年後嘉永元年(1848)に死去する。時に茂19歳であった。剃髪して鳳臺院と号す。
江戸の大崎屋敷、白銀屋敷で生活するも、文久3年(1863)に、顕光院(斎護室)と共に熊本へ帰国する。
その様子は恕齋日録に精しい。初めての土地で明治7年卒去までを過ごされた。45歳。
護前の死去に伴い、次弟・護順(韶邦)が斎護の遺蹟相続をすることになる。