細川家の有力家臣たちは概ね二の丸地域及び古城地域などに屋敷を拝領している。
下にご紹介する絵図は、加藤家末期の屋敷割図である。細川家は入国後の屋敷割をするためにこれをもらい受けたのだろうか、「上々々」とか「上々」「上」などと建物評価をして書き入れている。
先にご紹介した記事によると、「大破」している屋敷があるなど、改易され居所を亡くした加藤家の家臣の人々の戸惑いなどが伺える。
細川家に於ける二の丸地区の絵図は以下の様に存在するが、22・二ノ丸之絵図にしてからも、入国時(1632)からすると60年弱の年月が経過しているから、入国時の状況は良くわからない。
22・二ノ丸之絵図 元禄年前後(1690~1700)
23・ 同上 宝暦年後半ころ(1700年代後半ころ)
24・ 同上 天明年前後(1781年前後)
25・二ノ丸之内千葉城段山 文政年間(1718~29)
26・東二ノ丸 不明 27と一対か
27・西二ノ丸 不明 26と一対か
下の絵図を見ながら、細川家有力家臣がどこに配置されたかを眺めてみよう。
加藤時代には本丸に「加藤平左衛門」屋敷があり、平左衛門丸としてその名を残す。又、奉行丸にも平左衛門の中屋敷があり、加藤平左衛門の力の程が良くわかる。ここには細川家の「田中兵庫(柳川藩主・田中吉政弟)」が入居した。
現二ノ丸広場の西南詰には加藤家時代は加藤右馬允の屋敷であったことが判りこれが最高ランクの「上々々」の屋敷であり、ここには「さと」とあり筆頭家老・松井氏(興長)が入った。その北、現在の熊本県立美術館がある一画には南北に道が通っていたことが判る。細川家にも使えた庄林隼人・木野左膳・坂井内蔵允等の名前が見える。この辺りに門があるが、その一画には能楽師・中村庄兵衛屋敷があり、後には住之江家が入ったので、「住之江門」の名が残る。後の藩校時習館の位置にある屋敷も「上々々」ランクで「下川又左衛門」屋敷があり、その南には「魚住彦兵衛及び蟹江主膳」の屋敷があった。ここは丁度熊本城の大手口にあたるが代々沼田家の屋敷である。新美八左衛門屋敷は有吉家(分家)、本丸北側の加藤右馬允屋敷の西、空堀を挟んだ反対側には「庄林伯耆守屋敷」があり「上々」として「・伯耆」とあるが、こちらの「伯耆」は志水伯耆(清久)の事であろう。
二の丸御門の東角は相田内匠屋敷と共に五区画が見えるが、此処が二番家老米田家屋敷、その右手の五区画は後の刑部家、その右の二区画も刑部家一族の屋敷となるが、この絵図では大木四郎の名前が見える。
刑部家は初代・興孝が肥後入り後は菊池に陋居しており、ここが刑部屋敷に成った時期は判然としない。
その前が棒庵坂、坂を下った先に下津棒庵の屋敷が見える。下津家は細川家に仕えた後もずっとこの屋敷に住まい続けた稀有な家である。百閒石垣下の北側には飯田覚兵衛屋敷が見える。
(説明だけではなかなか判りにくいから番号をふろうと思っている。しばしお待ちを・・・)