私のブログを見て居られる方からメールをいただき、私の肩の痛みは「胸郭出口症候群」ではないかとのご指摘をいただいた。
私のボヤキが御目に留まり誠に恥ずかしい。その方も同様の症状がお有りだったようだが、今は完治されたという。
「タイピングの遣り過ぎではないですか?」とのご指摘もあったが、自分でもそう感じている。
今日もまだ、一昨日からの症状のままである。上を向いて寝ていても痛いから、毛布を手繰り寄せて左腕を乗せる台を作るという有様である。
「胸郭出口症候群」を読ませていただくと、まさにピッタリである。これは病院通いをしなければならないのかと、少々うんざりではある。
この文章も、姿勢を正してタイピングをしているが、左手の痺れがなんとも不愉快な感覚である。
細川家の侍帳の一つに、「肥後入国宿割帳」というものがある。先に書いたように家臣団の入国は色々な様態である。
家族は原則後からやってきたようだ。長洲あたりから舟に乗り小島へ上陸したと記すものがあり、それから坪井川を上ってきたのだろうか。
屋敷割はいつの時点で完了していたのか、史料が少なく定かではないが、有力家臣は家族ともども年内にそれぞれの屋敷に入居したものと思われる。
正月の御規式は謡初めなどは例年の如く行われているから、遅い人は「宿先」から登城したという人もあったかもしれない。
有力家臣については「綿考集録‐巻34・出水叢書p341」に記事がある。
扨早速より御城下御廻り被成、屋敷割等も被仰付、大小身共ニ相応之屋敷を追々ニ被下候、有吉頼母拝領三ノ丸之屋敷
は前代並河志摩屋敷、長岡監物拝領二ノ丸の屋敷ハ相田内匠屋敷ノ由
・考ニ一書、松井屋敷ハ加藤右馬允、有吉屋敷ハ森本左近屋敷なりしと云ハいふかし
・又一書、十二月十一日相田内匠屋敷を監物ニ被為拝領と有、然ニ同十二日監物より頼母・備前・伯耆ニ遣候書状ニ、
家割夫々被仰付候、昨今方々御廻り被成、御覧被成候、定而ニ三日中ニ相究可申と存候、端々家被遣候衆も有之候
へとも、各我々なとのハ未被仰出と有、左候へハ十一日ニ拝領との事いふかし、
又松井・有吉も大方同時に拝領、其外も年内ニ被為拝領か、尤春ニ至屋敷割被遊、夫々拝領之様ニしるしたるもの
有之相当へ共、右監物より三人江之書簡(略)を以考候ヘハ、何れニ被下候と被存候
惣而前代より有之候家々大破候ニ付、いつれも追々作事等いとなミ候、扨松井ハ勿論有吉も先例之通城下之格ニ被仰付、
下屋敷も京町・坪井ニ而被仰下、府中ニ蔵屋敷御免、河尻大渡口ニ而舟屋敷をも被下候、
或時忠利君京町之の要害御巡見被成、頼母佐下屋敷割等御覧之上御意被成候ハ、此口ハ薩摩より豊前街道の物口なり、
西ニ大身の者を置へし(沢村大学?)、東方ハ其方(有吉)下屋敷なる間、人之知たる葛西惣右衛門を置候へと被仰候、
則惣右衛門被召出、物口なる間其心得いたし候へとの御意有之、屋敷の繩御差図ニて御はらせ被成候故、今以子孫此や
しきに居申候、右惣右衛門ハ三斎君御代より御懇意の者ニて、度々御前ニ被召出、御鷹野なとニも数度被召列、江戸御
在府の砌ハ、惣右衛門よりも自身の使者差上御機嫌奉伺、八代ニ而も折々被召候て御時服なとをも被為拝領、毎歳献上
物をも仕候故御書も数通頂戴、今以伝来仕候、忠利君も惣右衛門門前御通り被成候節ハ、御目見ニ罷出候を御籠脇ニ被
召、御物語なと被遊、遠方迄被召連候事度々有之と也(以下略)