「横井小楠遺稿」の中には、小楠がいろんな関係者とやり取りをした書簡が取り上げられている。
親族宛(宿本へ、その他)が多いのは当然だが、後では絶交することになる家老・米田監物や、藤田東湖・橋本左内・勝海舟・元田永孚・安場一平・三岡八郎・米田虎之助・下津久也等々303通+追加書簡7通が収められている。
その中に、木下韡村と3日連続となる往復書簡6件が含まれているが、これは「木下韡村日記」にも登場しない貴重なものである。
天保十一年二月韡村は江戸に下っており、日記は九月から始まっているからである。
ウイキペディアから引用すると、以下のような時期である。
「天保10年(1839)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年(1840)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された。」
江戸に着いたばかりの韡村に対して、「藩主・齊護の意向を確かめたかったのだろう」とは、井上智重氏の「新・肥後学講座ー明治の熊本」の中での解説である。
小楠は韡村の書簡の内容に「友情味が乏しい」と絶交を申し入れ、韡村は縷々説明を重ねるが仕方なく小楠の申し入れを受け入れている。井上氏の指摘のような内容を韡村から聞き出すことが出来なかったのであろう。
小楠の可成り我儘で一方邸なような気がする。
この逼塞の時期を経て、実学連の活動が始まっていくのだが、同時に、蓑田勝彦氏の秀逸な論考「熊本藩主=細川斉護の実学派排除ー「学校党」は存在したかー」にあるように、その活動は藩主の忌み嫌う状況の中にあった。
そんな書簡六通を皆様にもご紹介したいと思い、タイピングに取り掛かった。順次ご紹介申し上げる。