今日9月10日は、年は変われど日本の歴史上にその名を残した人たちの運命の日であった。
(1)その一人は、ガラシャ夫人のキリスト教への傾倒の橋懸りを作ったとされる高山右近で、慶長19年家康の
キリシタン国外追放をうけてマニラに向け出国するに当たり、忠興に別れの書簡を送っている。
教養ある武人のその心情を吐露する書簡の内容には心打たれる。
マニラに於いては、スペイン総督の歓迎などを受けているが、失意と旅の疲れ等が重なりわずか二か月足
らずで死去している。
近日出舟仕候
仍此呈一軸致進上候
誠誰ニカト存候志耳
帰ラシト思ヘハ兼テ
梓弓ナキ数ニイル
名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命墜
名ヲ天下ニ挙 是ハ
南海ニ趣 命懸天名ヲ流
如何六十年之苦
忽散申候 此中之御礼ハ
中々申上候/\
恐惶敬白
南坊
九月十日 等伯 花押
羽越中様
参る人々御中
(2)徳川家康の二男・結城秀康の子・松平忠直は大坂冬の陣で戦功をあげるものの論功行賞に不満を抱き、その
後酒色に溺れ、家臣などを殺害するなどの乱行を重ねた。参勤さえも拒否するようになったため、元和9年
豊後に配流となった。豊後に於いては人が変わたようになり穏やかな生活をつづけた。
慶安3年9月10日に忠直は死去する。豊前で側室に二男一女が誕生し、忠直の死をうけて越前からの迎えによ
りこの人たちが帰国している。次子(三男)永見長良は後に起こる越後騒動の渦中の人物として知られる。
■大分の松平忠直配流の賄領・・番外編