豊前時代の細川家史料を読むと、領内に採銅所等と言う地名があり銅の採取が行われ、「銭」を作っている記録が見える。
しかし、熊本に移封後においてはこれがあまり見られない。幕末に至り各藩が贋金つくりに励んでいるが、熊本藩に於いては見受けられない。私の勉強不足だろうか。
勝海舟の話をまとめた「氷川清話」を読むと、明治初頭各藩が作った贋金をつかまされた外国人たちが新政府に換金を求めてきたという。大久保利通(内務卿)が頭を抱え、人を介して海舟に相談に来たので「皆引き換えろ」と返事をした。大久保は海舟の言により決断して外国公館に「引き換え」を通告した。20万円に達したとされるが、海舟は大した金額ではなかったと述壊している。明治初頭のこの金額が現在どのくらいになるのかはよく判らない。
何と言っても贋金つくりは薩摩が出色であろう。アーネスト・サトウの著「遠い崖」によると、「花倉御殿跡で贋二分金造りをしていた」とある。谷あいの隠れ里のような場所であり、大っぴらとはいかなかったことが伺えて面白い。
万延二分金に似せて、銀台に金メッキを施し通称「天ぷら金」と呼ばれる。
戊辰戦争の軍用貨幣に造られたもので、正貨の1/4で出来たからその益は750億円という試算がある。
さすがに明治二年六月以降大久保は、薩摩の密造を廃絶させたといわれる。
これは薩摩に限ったことではなく、会津・名古屋・薩摩・広島などをはじめ土佐・仙台・加賀・秋月・佐土原等の諸藩も戦費を確保するために同様の「天ぷら金」を作った。
「かます」に入れて温泉に浸して古金のように見せかけたとは加賀藩の記録に在る。
竹下倫一著「龍馬の金策日記ー維新の資金をいかにつくったか」をよむと、龍馬も積極的に贋金つくりを奨励している。
明治維新は「贋金」によって成功したともいえるのではないか、皮肉なことに明治新政府がその尻ぬぐいをした。
前に述べた通り熊本藩ではあまり「贋金」つくりの話は聞こえてこないが、筑前の黒田藩は太政官札を偽造までして汚名を蒙った。
筑前黒田の11代の殿さまは長溥公、薩摩からのご養子である。黒田藩の明治維新は熊本よりも程遠かった。