津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■人様があまり経験しないトホホな話

2023-09-18 10:31:54 | 徒然

 熊本は藤崎八旛宮の秋の例大祭の神輿行列が昨日行われた。いわゆる随兵の行列と馬追い連・57団体(11,000人とも)がこれに連なり、コロナが一段落して久しぶりに今年は賑わいを見せたようだ。
この時期から熊本は朝夕が涼しくなり、「随兵寒合(ずいびょうがんや)」と呼ばれるが、今朝はまさにその通りで涼しさを通り越して少し寒いほどであった。
昔一度だけ勢子の一人として参加したことがあるが、それ以来見物に出かけたのは数回だけである。

 私はこの時期になると、思い出したくもない痛恨事が頭に浮かんでくる。
小学校一二年の頃ではないかと思うが、母と姉と三人この馬追いを見物しようと外出した。
当時私は大江に住んでいたから、現在の県立劇場前あたりから明五橋を渡り藤崎宮近くへ出たのだと思う。
その県立劇場あたりは、昔は未だ田圃であった。母に連れられて外出するなど私にはあまり記憶にないほどなのだが、余程うれしかったのか私はぴょんぴょん跳ねながら歩いていた。
細い道脇の田圃の際に「肥壷」が埋められていて私はこれに落ちたのだ・・・・
蓋らしいものは何かあったように思うが、腰位迄ドボンとはまり込んだ。ほうほうの態で這い上がったが無残である。
姉が随分怒ったのを覚えているが、我が家まで約1㌔程を引き返して井戸端で何度も水を被り身体を洗い、着替えをして又出かけ直した。
その日のその後の事は全く記憶にない。人様が絶対経験しないような話だが、自慢にはならないトホホな話である。
            肥壷に落ちた想い出秋祭り お粗末・・・

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■元和五年九月十八日、御六(光尚)誕生

2023-09-18 06:15:08 | 細川家譜
細川忠利室・千代姫の輿入れは慶長十四年(1609)だが、六丸誕生までは十年かかっている。
元和五年(1619)の九月十八日に嫡子六丸・後の光尚が誕生した。
実はその間、正室・側室の子が五人誕生しているのだが、細川家家譜は正式な記録には留めていない。
細川忠利の嫡男・光尚の幼名は「六丸」、その名の由来は「第六子」の故と綿考輯録は記す。
    系譜家伝録、光尚多兄弟生在第六故以爲幼名、兄皆夭死、忠利立光尚爲家嫡云々

                                                       
 
 つまり光尚誕生前に5人のお子が誕生していたことになる。細川家家譜は六丸誕生以前の5人のお子については正式に記録していない。編者・小野武次郎は当時の記録の杜撰なことを指摘している。
「其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代(中略)五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之(光尚は)唯六人目の御子様と云はかり」と・・・しかし、いろんな記録を辿ると御六誕生以前の五名の御子の様子がうかがえる。
  1,慶長15・6年比千代姫様御腹に御一男御誕生、
  2,元和二年御誕生の御子様御名ニ辰の字を可被用思召之趣、忠利君江戸より豊前に被下御書有 (下津久馬所持)                                  
  3,双子と思える女子(亀・福)の存在が、忠利-三斎の書簡で伺える。妾腹か?
    寛永六年正月忠利君御書「かめふく儀不便なる仕合(死去)可申上様も無御座・・」
    三斎君御書「亀福儀承驚申候・・・右之仕合無是非儀ニ候事」
  4,元和四年五月十一日忠利在府 三斎からの書状に「御姫(千代姫)御懐妊の儀ニ付・・」とある。
    この前に数度にわたり在小倉の忠興は、中津に在る千代姫が不食気味である事を心配し服薬を進めていることを江戸の
               忠利に知らせている。光尚の生年からすると光尚ではない。
               綿考輯録の編者小野武次郎は、六・七月にお産があったのではないかと記している。
               詳しい記録がないところを見ると「死産」「夭折」の可能性も伺える。
  5,元和五年九月十八日、第六子として御六(光尚)誕生

 

 

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