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第2次長州戦争小倉口の戦いを描いた「九州小倉合戦図」
7月3日夜になり、長州兵が上荷船に砲を積んで、幕府軍の主力艦富士山丸に近づき砲撃するなどした。
翌朝、ひそかに門司に上陸していた長州兵が海岸と山麓にわかれて大里に進撃、海からも大里陣地を砲撃し小倉兵は赤松へ後退した。
長州兵は夕刻海峡を渡って引揚げた。小倉沖から幕府軍艦3艦が出動したが、長州の3艦が応戦した。
熊本藩の家老・米田監物が着陣した翌日の7月27日、長州軍は総攻撃を開始、これに対し熊本藩兵が赤坂の前方、延命寺山に砲兵陣地を築き、長崎街道を南下してくる長州軍を迎撃した。猛烈な撃ち合いになり、長州勢は死傷者を出すなど多大な被害を受けて敗走し長州へ逃げ帰った。
長州軍の死者については参陣していた横井小楠が手厚く葬った。明治に至り、木戸孝允から長州へ遺骨を引取たい旨の申し入れを受けたが、熊本藩のメンツを楯に小楠はこれを断った。
その墓所は今も赤坂の小高い丘の上に残る。奇兵隊戦死墓
熊本藩は幕府本営に援兵を要求するも、幕府兵も小倉藩兵も参戦しない為、肥後藩の主将・米田監物は撤退を決意して30日に至り帰国を始める。
まさにその日7月30日、将軍徳川家茂病没の知らせを受けると、8月1日幕府軍小倉口の総大将であった九州総督の小笠原長行(ながみち=唐津藩世子)は小倉から脱走し富士山丸で長崎へ向かった。
熊本藩その他の諸藩勢は、国元に引き揚げ始めた。総督が脱走し、諸藩が撤退した後は、小倉藩小笠原勢だけで長州勢の侵攻を防ぐのは難しいと、小倉藩重役は小倉城を「開城」する以外の手段はないと判断し、幕府目付の二人に対し城を請取る様に懇請た。結果的には熊本藩の竹崎律次郎が提案したという「自燃」案を目付に認めさせた。
幕府の目付の「お墨付き」を得たことで、世子・小笠原豊千代丸(後の忠忱=ただのぶ)をはじめ、豊千代丸の亡父・忠幹(ただよし)の正室や息女らを、肥後国熊本藩領に避難させる準備がなされた。
五つ時過ぎ(午前8時頃)の豊千代丸ら一行の城内退去から始まった。篠崎口を出て木町を経て、秋月街道を南下した。同日夕刻、香春(かわら)岳のふもと採銅所(現田川郡香春町)に到着した。
豊千代丸らは逃避行を続け熊本藩領内牧にり、その後熊本藩の斡旋により熊本城下の宿屋に落ち着くことになる。
慶応4年3月、小倉城を失ったため藩領香春に戻った。尚、長州軍の指揮を執った高杉晋作は慶応3年4月13日に死去している。
その後、熊本藩が仲立ちとなり長州藩に対し止戦を申し入れるも難航し、終戦は年を越えることになる。