もう14・5年にもなろうか、ある会合で隣り合わせになった方が一枚のコピーを取り出して、目を通して居
られる。脇からではそれが何であるのかはうかがい知れない。
しばらくすると、私の方に首を廻して「こぎゃんとば読みよります」と言って見せてくれたのが、まさにこの
コピーである。
最近「横井小楠遺稿集」を読んでいたら、その本の最末尾にこの文章があるを見つけて、そのとき見せられた
コピーがまさにこれだったことを知り驚いてしまった。
当時私は小楠の「天道覺明論」など見たことも読んだこともなくて、その時初めて目にしたようなものだった。
「わたしゃ、こら横井小楠が書いたって思いますばってん、お宅はどぎゃん思いなはっですか?」と聞かれる。
初めて見たとも言えなくなって「勉強不足でよく判りません」と答えて逃げた。話はこれっきりである。
いまでは、偽書だとされているようだが、本物だとされる研究者もおられるようだ。
私は小楠先生の文章だとおもったりしているが、皆様如何・・・・
山本夏彦氏がその著「完本文語文」で言われるように、口語文は本当に格調が高い。「文語文にすればこの格
調は保持できない」と言われることだろう。
「読書百遍意自ずから通ず」というが、まだ読みようが足りない。
細川斎護 松井章之(てるゆき)
蓑田勝彦氏の論考熊本藩主=細川齊護の「実学連」排除ー「学校党」は存在したかを読むと、実学党に対する頑なな細川齊護の実像が浮かんでくる。
併せて堤勝彦氏の論考肥後藩における「実学」の形成と展開ー藩主細川齊護と藩家老長岡監物の場合ーを読むと、蓑田氏の論考とは若干の差異が認められるが、より理解を深めることが出来る。
藩主齊護に追従して、実学派(後の坪井派)の長岡監物(米田是容)に相対したのが、三卿家老筆頭の松井章之である。
藩主と筆頭家老がタッグを組むのだから、実学派の活動はひこばえが頭を切られるように成長を止められた。
齊護は先代・齊樹の急養子でその遺蹟相続にはいろいろ問題が起きた。
齊樹夫人の実方の人物に決定しかかった処に、細川家の正統を継承させるべきだという声が上がり、急遽使者・杉浦仁一郎が8日間で江戸へ走った。
正統を強く主張したのが、是容の父・米田是陸であったことからすると、齊護にとって是陸は恩人ともいえる人物である。
かって、齊護公御家督一件之事(一)及び齊護公御家督一件之事(二)でご紹介してきたが、相続問題は齊護にとってはある意味重圧であったろうと思われる。
まだ先々代藩主で実叔父である齊茲も健在であった。その意を伺う必要もあったかもしれない。
松井章之と米田監物(是容)は歳もあまり変わらず、家老就任も同様である。強いライバル意識が有り是容が家老職を辞任し野に下った時の悲痛な思いは如何ばかりであったろうか。
かってご紹介した是容の歌「閑居燈」はそんな時期のものではないかと思っている。
しかし実学派の台頭により遅ればせながら肥後の維新がやってきた。是容は弟子たちの活躍ぶりを見ることが出来ないまま死去したが、一方章之は長生きして明治20年75歳で死去した。
肥後の維新をどういう想いで見たことだろうか。
一方、齊護の「実学派嫌い」は継嗣・慶順(韶邦)にも継承された感があるが、こちらは実学派の士と共に藩政改革を目指した弟護久・護美兄弟によって隠居させられている。実学派と新政府の力を借りての静かなクーデターともいえる。
齊護の「実学派嫌い」は実の子護久・護美兄弟によって覆った。まさに時代が求めた結果であろう。