津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■長久手の戦いと「楽只」なる枕

2023-09-20 07:31:01 | 歴史

 豊臣秀吉 VS 織田信雄+徳川家康に於ける小牧長久手の戦いの記録を見ると、細川家の働きぶりは余り見かけないように思える。天正十二年(1584)の春のことだから、忠興22歳である。
忠興は、総勢約3,000、弟・玄蕃頭興元、松井康之、米田是政、有吉立行、篠山五左衛門(飯河豊前こと)、荒川勝兵衛、佐川弥一郎、落合左近、銚子数盃介、西川与助、中嶋左近etc等と共に秀吉の許に参陣している。
長久手の戦いでは細川勢は蒲生氏郷らと秀吉の先手となり出陣、家康勢が池田勝入父子・森武蔵などを討ち取り秀吉勢は多くの死者を出し敗軍した。

 細川勢の働きについては、綿考輯録でもその詳細をうかがい知れないが、忠興はその働きに対し秀吉から感状を受けたらしい。この感状に関して面白い話が残されている。

  此感状ハ忠興君為家珍、御平生の御枕の内に入れはりこミ、御一生御身を御離し不被成候、
  此枕を人々に名を御付させ被成候へ共、御気二不入候を清巌和尚楽只と御附候を御用被成し成、
  於八代御逝去の節御遺言に任せ御葬送の場にて是を焼失す、御隠居の仰に、越中(忠利)ハ越中
  か涯生にて取り不取ハ心次第と被仰けるとなり、

若い忠興にとって小牧長久手の戦いは如何なる感慨が残ったのか、感状を枕に入れて終生これを使い続けたというのだから、思い入れ深い物であったことは間違いない。
5月に入り勝利を得たとはとても思えない秀吉は、陣を引き大坂へ帰っている。
秀吉は何と信雄の領地を攻めるという手に出た。
信雄は和睦を申し入れ信雄の領地が割譲された。家康も信雄に対する義理を果たして三河に帰ったが、秀吉の再度の三河攻めも想定される。秀吉の想いは天正大地震という思いがけない天災で止むことになる。

コメント
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