観光地で入浴する外人観光客の入れ墨の問題に、関係者が困惑しているニュースをよく聞くが、日本でも若者や女性などの間でも「Tattoo」として広がりを見せている。
かっては「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」などといって、入れ墨等はもっての外であり、罪を得たものが罪として入れ墨をいれられ「入れ墨者」と言われた。
やくざの世界やチョット粋がったお兄ちゃんたちが、入れ墨を入れて不幸者となった。
現代の若者にとっては「Tattoo」としてファッションアイテムの一つとして捉えられているのであろう。
又、船員などに多かったのは、船が遭難した時の目印にするためだとも伝えられる。
作家・吉村昭氏の著に大津事件で襲撃されたロシア皇太子の事を題材にした「ニコライ遭難」という一文が有るそうだが、同氏の「史実を歩く」にこの作品を書くに当たっての経緯が書かれている。
氏の「丹念な調査を進めて歴史の真実に肉薄して作品に反映させる」という姿勢が明らかにされている。
事件は明治24年5月11日、滋賀県大津の街中でロシア皇太子ニコライの通行の警備をしていた巡査・津田三蔵がサーベルで切りつけるというものである。
ニコライは数十メートル走って逃げたという。津田がサーベルをかざして追いかけてきたが、有栖川宮を始めとする日本の随行員は一人として止めに入る者はいなかった。ゲオリギオスがお土産に買った杖で津田を叩き、取り落としたサーベルを拾った車夫が津田に切り付けて取り押さえた。
ドナルドキーンの「明治天皇(下巻)」には、第42章に「ロシア皇太子襲撃」(p122~143)という項が立てられているが、明治天皇は事件の10分後有栖川宮から電報による報告を受けると、すぐさま天皇は自ら見舞いに行くことを決意する。翌12日の早朝天皇は汽車で出発する。
すぐさまニコライを訪問するが、ロシアの随行団がこれを拒否している。翌13日ゲオリギオスの案内でようやく対面することが出来て深い遺憾の意を表した。皇太子も又、東京で再開することを約した。
しかし、本国からの連絡を受けて皇太子一行は帰国するとの報告を受ける。天皇は晩餐の席に招待するがこれも拒否され憂慮された。しかし、逆に皇太子の方から晩餐の招待が有り天皇は快諾して、政府重臣たちの心配を振り切って出席し、その席は大きな笑い声が聞こえるほど打ち解けたものであったという。
話が脱線してしまったが、入れ墨に話を戻そう。
実は事件前の4月27・8日らしいが、寄港した長崎で彫り物師を招き、入れ墨を施したというのである。
吉村氏は長崎の図書館で偶然展示されていたロシア皇太子の来航の史料からこの事実を発見されている。2~3日彫り物師を船内に招き入れ「両臂(かいな)に刺繍を為し居らるゝよし」というという新聞記事も残されているという。同時に船員の多くも入れ墨をしたらしい。
下絵帳をしめしてこれから選ばれたらしいが、皇太子の入れ墨は「龍」ではなかったかと、吉村氏はスケッチさえしておられる。
作家の著作に関する資料収集は出版社の助太刀を頼む場合が多いそうだが、吉村氏の夫々の作品のディテールの確かさは、自らの徹底的な取材によるものだとされる。
それは読んでいて実感する。