津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川 忠興 ( 三斎 )筆 消息

2023-09-23 10:55:55 | オークション

           細川 忠興 ( 三斎 )筆 消息 手紙 横物 桐箱

 ヤフオクに久々に大物が出品された。まごう事なき三斎自筆の書状である。三斎と署名があるから元和六年以降のものだが、四行目に永日向とあるのは永井直清と思われ、寛永九年に日向守に叙任されてい居り、又、下段四行目には「日光御社参前ニハ中/\御目見申事も罷成間敷」とあるから、八月廿一日の日付から将軍の日光社参とは寛永11年(1634)9月の将軍家光の社参だと考えられる。
故にこの書状は寛永11年のものと思われる。綿考輯録に於いてはこの書状を裏付けるものは見当たらないが、この時期三斎は光尚の任官の為に忠利と共に江戸へ下っており、少々体調も崩し家光の見舞い設けている。文中の上段中央よりやや左よりに「大坂ニハ上手之醫師・・」とある事から、帰国の途中京都にて大阪の医師を招き治療を受けたのであろう。綿考輯録には「九月七日江戸御発駕、十八日京都着、廿四日に大坂御出船、十月四日八代に御着被成候」とある。
この書状は寛永11年のものでほぼ間違いない。三斎公御年71歳、まだまだお元気である。

何方に宛てた書状なのか、読み下しにチャレンジしてみようと思う。
このような素晴らしい書状をヤフオクで拝見できることは、誠に有難い。感謝である。

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■第二次長州征伐・小倉戦争と細川家 プロローグ

2023-09-23 06:52:22 | 史料

 吉村藤舟なる人物が著した「郷土物語」の第十六輯「小倉戦争」から、熊本藩の出兵と戦いを抜き出してご紹介しようと思っている。
又幼い世子・豊千代丸(4歳)の熊本への逃避行についても、若干の資料をもとに合わせてご紹介したい。


    右手猛火の中に在るのが自焼させた小倉城、小倉側は一方的な艦砲射撃を受けている。右下の島が彦島(山口県)である。

 幕府に於ける第二次長州征伐は、長州戦争とか四境戦争とかよばれる。そのうち、長州が小倉に上陸したいわゆる小倉戦争(長州では小倉口の戦い)は、慶応2年(1866)6月17日、高杉晋作等が率いる奇兵隊・報国隊などと、長州軍が関門海峡をわたって小倉藩を攻撃する。
幕府の命を受けた小倉藩・熊本藩・筑後柳河藩・肥前嶋原藩・豊後竹田藩などからなる幕府軍は、7月27日は赤坂・鳥越の戦いでは肥後軍が善戦して長州軍を圧倒したが、幕府の責任者・老中小笠原長行(唐津小笠原家の世嗣)が援軍を拒否したため不信感を強め、支援の諸藩は帰国した。
藩主・小笠原忠幹は慶応元年(1865年)に39歳で死去しているがその死は伏せられ、幼い世子・豊千代丸(後の藩主=忠忱)と忠幹夫人は熊本藩を頼りに逃避行を重ね、熊本に入るも特別の庇護を為す訳でもなく、城下の町宿に避難生活を過ごした。支援諸藩の撤退を受けて小倉藩は、8月1日、小倉城を自焼して香春へと撤退した。
長州軍は小倉藩領の企救郡一帯を占領した。慶応3年(1867)正月にいたり、和議が成立して長州戦争は正式に終結した。
幼い藩主・忠忱は慶應3年年4月7日、新政府に対し避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請して帰国した。

 

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