津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■勇知之先生の御逝去と残された西郷の書簡

2023-09-16 20:21:49 | 徒然

 丁度一年前■西郷隆盛、京町へ現るを書いたが、今もって西南の役や維新史あたりをうろうろしている。
今年8月21日には、■池邉吉十郎・上田久兵衛宛西郷隆盛書簡etcを書いたが、この書簡を在熊の「西南の役」研究の第一人者・勇知之先生にお手紙と共にお送りし、またの機会に色々お尋ねしたいと思っていたが、なんと9月3日急逝されてしまった。何度かお電話もいただき親しくお話もさせて頂いたが、痛恨の極みである。
先生からお預かりした、西郷の池邉吉十郎宛の書簡がいつの頃のものなのかの「謎解きを一緒にしましょう」と仰っていただいていたが、これも水泡に帰した。
先生からお預かりした西郷の書状二点、先のヤフオクの書状二点をどう扱えばよいのか途方に暮れている。
ご冥福をお祈り申し上げるとともに、西郷書簡の謎解きを頑張らねばと思っている。

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■細川治年公ご命日

2023-09-16 06:08:15 | 歴史

                                                                   

 細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。
父・重賢の嫡男として生まれた。生母は金澤氏(此井=このい)である。
          細川家譜--細川治年譜 ・・ (全)

嫡男・年和、次男應五郎が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。
それは当然リリーフ役としてであり、その跡は治年の男子をして継嗣とするとの約があった。

立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。

「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」七月廿三日付の次の様な文書がのこされている。
     今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也
 我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
 然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々
 之掟は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。しかしながら應五郎も死去したため、治年の代まででガラシャの血統が途絶え、齊茲以降は嫡子・齊樹、齊樹に男子がなく再び宇土支藩から齊護が入って宗家を継ぎ以降の細川家は宇土家の血統ということになる。



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