我が家の史料を入れている(と言うより、放り込んでいる)箱を久しぶりに明けてみた。
この中に上記「津田楳渓先生門下生同窓會」の史料と思われるコピーが二枚出てきて、祖父・義雄の記事が顔を出した。
「会員現況」という頁があり、二番目に祖父の名前があった。どうやら昭和11年のものらしい。祖父は66歳と有る。
拝呈仕候時下御清康奉賀候今回の御計画至極結構と存し會費金一圓と別紙御送附候間御受領成度此段
貴意を得候也敬具
六月二十六日 ■■■■
現在調
一、年齢 六十六歳
一、原籍 熊本縣飽託郡城山村下代六五四
現在 東京小石川區高田老松町七六
一、家族 老母八十四歳あり、夫婦健在、外に豊島師範三年の甥と、日本女子商業二年の姪あり、家族は
五人なり、末弟夫婦千年病没し、遺子四人を引受け姉二人は他に嫁せしめたるも、今尚ほ二人
を世話しつゝあり。
長男は早大理工科を卒業し、目下臺湾總督府營務課に勤務一女あり、
長女は東京人早大工學士に嫁し、大阪にあり、三人の女兒あり、
次女は同県人水産學校教諭に嫁し、岩手縣宮古に在り。二男一女あり、
末女は本年二月同縣人名古屋高商出の會社員に嫁し、兵庫縣芦屋に在り、以上にして孫は七人
なり、
去る大正四年細川家に奉職して現在に及ぶ、碁も打てば将棋も指す、されど下手なり、スキー
は十年以上も随行の光榮に浴し、大に勉強したるも、是も極めて拙なり、夏は毎年葉山の海水
に随行し、老骨ながら今も泳ぎつゝあり、詩はやめた歌もやらぬ、高潮の誌友として時々俳句
をやる、此れ下手の横好きの方なり、投網は大好きなれど暇なくして行けぬ、希望感想なきに
非ざせど、他日に譲る、
この一文に接して、判ったこともあり有難い記事であった。
ちなみに、津田楳渓(静一)先生の門に在ったという事は初めて知った。
一時は平壌の朝鮮語学校の校長などを勤め、ある資料などによると「国士」などと書かれているが、細川家に大正四年から昭和十九年に亡くなるまでは、穏やかな暮らしであったろうと思われる。