今朝ほど届いた熊本市の「市政だより」、そのトップ記事に「まちなかをサルク」とある。
奥方が目ざとく見つけて「熊本弁て変ね」という。「さるく」とは「散策する」と言う意味だが、延岡出身の奥方からすると「変」なのだろう。
ウィキペディアなどを見ると、その起源について納得いく説明がある者は見受けられない。
某民放のアナウンサー氏は熊本弁を紹介しておられる中、「彷徨う(さまよう)」が変化して「さるく」が生まれたのではないでしょうか、と解説しておられるが説得力に欠けるような気がする。
私は「去る」と「来る」が合体した「去る来」だと考えているが如何だろう。
大意は変わらず、要するに「行ったり来たり」するさまで、丁寧語にすると「散策する」となるのだろう。
いきなり「サルク」とくると、「何!!」と身構えてしまうが、まだまだ理解することが出来る熊本弁の内ではある。
「この間■■をさるいて来ました」などという会話は、まだ日常会話の中に生きている。
細川家家臣に入江姓の御宅が太門太家・傳十郎家・謙吾家・清八郎家・次郎太郎家・林九郎家・太郎八家と七家を数える。
家紋帳をみると、太門太家と傳十郎家が、同族であろうことが推察されてきた。
今般 T 氏が取得された資料をお送りいただいたが、ここの清和天皇に遡る入江家の系図があり、両家の関係が判明した。「武家家伝ー入江氏」とほぼ内容は同じである。
これによると、多門太家の初代・三之允の父は入江景秀であり、傳十郎家の初代・淡路守平内はその弟であることが判明した。傳十郎家の祖とする左近将監元秀は景秀・平内(景光)の父である。
当方の侍帳の書き込みについては、この新たな史料により錯誤が生じているが、今一度精査をして加筆及び修正を図りたいと思っている。
元秀の母親が和田惟政の姉であり、元秀の弟・秀升はその女婿であり、和田家と深く繋がる御宅であることが判る。
■ 入江太門太 (東南4-21) 百五十石
・入江左近将監元秀
・入江晋門景秀
1、三之允・正勝
2、嘉左衛門
3、権之允
■ 入江傳十郎 【丹後以来】 (東南4-20) 三百石
左近将監元秀
1、淡路守(初・平内 )
2、徳左衛門(初・平内・左近・勘三郎)
3、徳左衛門