阪神タイガースが久々の「あれ」・・大阪の町は大騒ぎのことだろう。
私も珍しく8回の攻防をTVで見て「あれ」間違いなしとおもってTVを消した。
自分の部屋でTV観戦していた奥方が歓声を上げ、私の部屋に報告に来たので「あれ、そうですか」と答えて置いた。
今年の流行語大賞は間違いなく「あれ」ですね。
ジャイアンツの原監督も、もう引退せざるを得ないでしょう。去年身を引いておけば、敵地で胴上げを見る事も無かったろうにと思いますね。引き際が大切だということ・・・身に沁みて御感じになったことでしょう。
岡田監督「あれ」おめでとう。
時二慶應戊辰ノ年余(筆者)護美公ニ扈従シテ上京シ外交兼務ヲ被命 益田勇外交生ナリ 勇或日大阪旅舎ニ於テ松(山)藩士某ト出會時事ヲ談合ス 某ハ本日本国ニ歸ント別ヲ告グ 将ニ艫ヲ解キ大阪川口ヲ出帆セントスルニ偶風雨■ニ起テ抜錨スル能ハズト再ビ上陸シ来リ 益田ニ向イ突然問テ云ニ頓斗尋タルヿ忘レタリ 時二尊藩ニ安田善助・黒瀬市郎助ト称スル人アリヤ否ヤト 益田アリト云 其故如何ト某云フ 両人幣藩ニ滞在セルヿ数年ナリ 時々両人ノ得色ノ英談ニハ僕等客年東京ニ於テ因循ノ留守居等ヲ斬殺シタル事アリ 一面来数年ヲ經ルモ人其事實ヲ知ラズト 真ニ此事アリタルヤ 益(田)答テ云実二此事アリ當時留守居ハ吉田平之助ト云 長男吉田傳太復仇ノ為メニ千辛萬苦焦思此万心探索スルトモ未タ讐敵ノ姓名ヲ聞テ其ノ■ノ居ル処ヲ聞知セズト 事ノ始末ヲ詳陳シ畢テ益田■事ノ他ニ洩露ナカランヿヲ固ク倚頼ス 某モ始終ヲ聞テ唯諾シテ帰藩ス 益田其事ヲ政府ニ内達シ又吉田ニ密報ス 傳太之ヲ聞テ雀躍限リナク數年ノ大望漸ク今日二達スト直ニ若黨ノ辰之助ヲ連レ松山藩ニ赴ク 同藩ハ官軍ニ抗敵シタルニ付偶本日開城ノ日二當リ藩内騒擾セリ 然共某違約セズ黒瀬ヲ放免セズ乗船セシメ将ニ鶴崎ニ送付セントスル 船中ニ逢フト時二安田ハ前ノ日病死セリト 黒瀬ノ一人ヲ陰ニ請取リ連レ来リテ鶴崎町龍興寺ニ伴ヒ出シ吉田傳太進ミ出黒瀬ニ向イ姓名ヲ述テ貴様黒瀬市郎助ハ正シク實父吉田平之助ノ讐敵也 直ニ勝負ヲ決セント云 黒瀬臆シテ姓名ヲ云ズ 偶鶴崎詰ノ郡代瀬戸熊助ハ其場二出役セシニ黒瀬ガ億シテ名乗出ザルヲ見テ瀬戸黒瀬ニ向イ今更ニ瀬戸ヲ見知ザルヤト云 黒瀬俛首シ答サリシガ暫時ニシテ姓名ヲ述ブ 吉田尚進ミテ黒瀬ニ向イ然ハ勝負ヲ決セント云テ終ニ斬之 嘗テ黒瀬ハ瀬戸熊助物頭ヲ勤居タル時ノ隊下ナルヲ以テ如此叱言セシナリト 故ニ黒瀬其言ニ服セリト 于時慶應戊辰ノ年二月ノ三日也 主此都合七ヶ年間星霜ヲ踏テ漸ク本望ヲ達シ首級ヲ亡父吉田平之助ノ墓前二供シ憤霊ヲ慰安セシメタリ 人皆之ヲ快トセザルハナシ 尋テ従政府傳太ノ復仇ヲ遂タルヲ以テ家禄如元恩下シ賜リト也 誠ニ天道恢々疎ニシテ漏サズトハ此謂也
于時明治三拾年三月四日 真藤安正記ス
(了)
内田健三氏
前回書いた■内藤濯と竜北のわらべ唄に登場する内藤濯の妹の男子が、内田健三氏である。
つまり内田氏は、小楠の弟子で医師の内藤泰吉の娘の子、つまり泰吉の孫にあたる。
近代史家・花立三郎熊本大学教授は「熊本歴史叢書5、細川藩の終焉と明治の熊本」に、「もう一つの明治維新」を書かれているがその冒頭に、内田健三氏の平成12年12月29日の熊本日々新聞の「肥後=細川藩は明治維新に乗り遅れた」という記事を取り上げて居られる。
我々は徳富蘆花の「熊本の維新は、明治三年に来ました」のフレーズが頭から離れない。
研究者の先生方も、これに勝るオリジナルな表現が出来かねるのか、どなたも一様にこのフレーズを引用される。
立花氏も長い間蘆花のこの言葉に「不信をもった」とされる。
先の内田氏のこの「熊本藩が乗り遅れた明治維新」とは、「維新の大業は、薩長土肥に推進され、肥後は後塵を拝した」と書かれている。
つまり四藩の主導によりなされた維新の大業には、肥後ならずともその他大勢の藩も乗り遅れたという事になる。
蘆花がいう熊本の維新とは、主語として「実学党による」と言う言葉が冠されてしかるべきなのだろう。
(未完)