先に■長久手の戦いと「楽只」なる枕を御紹介した。以下はその続きである。
長久手の戦いでは羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人だとされ、羽柴軍は完敗している。
五月朔日の戦いの中で敗色濃厚となる中で、一人細川勢は敵を押し返し、二人の細川家士の奮戦振りが秀吉の目に留まったらしく、直接感状を得ている。
西川与助と山本又三郎である。(綿考輯録より)
去朔日、小牧表人数打入刻、家康於相慕者逐一
戦可討果処、敵依備不崩無是非候、少々足軽共
取出候処、抽諸卒、秀吉於眼前手柄之高名無比
類候、因玆為褒美熨斗附刀脇差遣■、弥向後可
比相励者也、恐々謹言
五月十一日 秀吉御書判
長岡越中殿手
西川与助殿
西川与助はこれを受けて、忠興から100石の加増を受けた。その後丹後で700石、その後御暇申し上げ金吾中納言(小早川秀秋)に仕え、その後帰参1,000石・御鉄炮頭被仰付、綱利公の時代同名与助異学の禁止にて御暇、元禄三年妙解公50年忌にあたり、与助子弥兵衛御中小姓に召し出さる。
(有名なニ刀を構えた宮本武蔵像は、かって西川家の所蔵であったとご当代からお聞きした)
山本又三郎は米田家の家来か、これに対しても、殆ど同文の感状が同日渡された。
こちらは、「因玆為褒美熨斗附刀遣■」との違いがあるだけである。■は「言偏に乞=きっと」