娣という漢字がある。「いもうと」と読むが、「実妹」ではなく「義妹」つまり「弟嫁」と言った処か。
対語として娰があるが当然「兄嫁」である。
実は今、ヤフーオークションに細川護美の書を三点まとめてた巻子が出品されている。
その中の一点に「御娣上さ満(ま)」とあて名書きした書簡があった。義妹に「御・上」の敬称がついている。
護美には弟はいない。ということは奥方の弟嫁であろうか?
護美の奥方は、大村藩の最期の藩主・大村純熙の六女・知久(大村家史料では三女)である。
実弟もおらず大村家は女に婿養子を佐土原藩島津家から二男・純雄を迎えている。
大村家の事はよく判らず、宛名の「御娣上さま」が何方なのか、よく判らない。
読み下しをしてもヒントはなさそうだが、チャレンジしてみようと思う。
三斎の愛宕下屋敷があった薮小路について、江戸名所図繪は次のように記す。(巻一 p189)
藪小路 愛宕の下通り、加藤侯の邸の北の通りを云。同所艮の隅裏門の傍に少しばかりの竹叢あり、故にしかいへり。
されど其由来詳ならず、傳説あれども證としがたし。慶長より寛永の頃に至り細川三齋公此地に住せられ、
その庭中の小池を三齋堀と號くといふ。
図(1) 図(2)
図(1)・左手に藪に囲まれた加藤越中守の屋敷が見える。愛宕山下三斎屋敷があった場所。
図(2)・広重 愛宕下藪小路 右手の薮の中に三斎屋敷があった。
江戸切絵図「愛宕下之圖」切り抜き 中央部蛇の目紋がある加藤越中守屋敷がかっての三斎屋敷
中央の通りが現在の愛宕通り、右奥に愛宕神社の森が見える。直進すると東京プリンスホテル前に至る。
熊本藩年表稿によると、元禄十六年九月十九日に宇土支藩2代目の「細川熊次郎(和泉守有孝)愛宕下藪小路之屋敷御用に付差上、この屋敷は忠興以来今年迄持ちつたえたもの」として収公された。
いわゆる三齋公の隠居屋敷であるが、元和八年ころ家作され三齋死去後は宇土支藩の屋敷となった。
北野隆熊本大学名誉教授によると、建物は寛永十年ころ上屋敷・下屋敷その他に移築されたというから、宇土支藩の元に新たに家作されたという事だろうか。