津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

旧主を考える-7 豊後・大友氏-2

2007-09-08 13:31:06 | 歴史
■安東氏「丸に九の字の家紋」の安東氏は、祖・式部少輔が「耳川の戦」で戦死している。三家が細川家に仕えた。
■加来氏 加来佐々衛門は細川忠興養女・お三の実父。お三(源立院)は宇土藩主細川行孝室、有孝の生母である。加来民部少輔は大友宗麟股肱の臣といわれた。加来氏は賀久荘の地頭職、その詳細はサイト「賀久荘・由原宮膝下の荘園」に詳しい。
■清田氏 大阪夏の陣で鑓働き一番と、忠興の激賞を受けた清田石見は、清田鎮乗の子である。鎮乗の父の継室は大友宗麟の娘(元土佐国司一条兼定室)である。鎮乗娘は忠興の側室となり、細川立允、刑部兄弟の生母である。鎮乗の弟・五郎左衛門は刑部付きとなり、子孫もまた刑部家に仕えた。
■清成氏 祖は田原氏、「武家家伝-田原氏」に詳しい。
■志賀氏 元岡城城主であった志賀氏は、加藤清正臣を経て細川家に仕えた。
■首藤氏 先祖附による。
■都甲氏 森鴎外の小説「都甲太兵衛」の都甲家の細川仕官は割と早い。
■吉岡氏 大友三老の一人と言われた長増の妻・妙林尼は薩摩の島津相手に勝利しその名を残した。息甚吉(椎原五郎左衛門)は鶴崎城主、大友没落後細川家臣となる。
■吉弘氏 石垣原の戦で事実上の大将役を務め戦死した、吉弘統幸二男が肥後吉弘氏の祖。実兄政宣は柳川立花家臣、その室は下津棒庵女である。

大友一族は「杏葉」の家紋を使う家が多い。上記以外にも「杏葉」の家紋の家が見受けられる。大友系の家であると考えて間違いないと思うが、今後の調査としたい。 
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六十而耳順

2007-09-08 11:18:36 | 徒然
 悪友が電話をしてきた。「そう爺さん、えらい張り切りようじゃないか」という。「なんだその『そう爺さん』てのは・・・」と聞くと「お前さん、躁状態だよ。もうちょっと気楽にやったらどうだ」という。そして「お前の話は最近とんがっとるなー」という。いろいろやり取りの後「六十になったら人の言葉が直に聞けるようになると論語にあるが、お前は六十になっとらんばい、五つ六つ遅れとるバイ、若っかねー、うらやましか」
こんちくしょー、言いたい放題言いやがって・・・
最後に「心臓の具合はどぎゃんね、寝伏すとブログも書かれんばい」の言葉に、鼻がツーンとして返事も出来ないでいると電話は切れてしまった。精神年齢未成熟の私は、辞書をひっくり返して、この言葉を探し出し筆をとってしたためて、コンピューター画面に貼り付けた。しばらくすると「その内巷で焼酎ば飲みまっしょー」と一行したためられたメールが入った。・・涙・・
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旧主を考える-7 豊後・大友氏-1

2007-09-07 17:09:54 | 歴史
 大友家の旧臣達は、西の関が原と呼ばれた石垣原の戦いにおいて、旧主大友義統を押し立てて領地の快復を願って戦ったが、壊滅的敗退を遂げ豊後の名家は此処に途絶えた。しかしながら細川家は、大友一族やその遺臣を数多く召抱え優遇している。その大友家は

 大友宗麟--+--義統----松野右京--(1)
         |
         +--利根川道孝----織部--+--亀右衛門--(2)
         |                 |
         +--半斉--(4)         +--善左衛門--(3)
 以上のように四家が松野氏を名乗って明治に至った。
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只今、明治の真っ只中

2007-09-07 11:37:59 | 書籍・読書
 島崎藤村の「夜明け前」が一向前に進まない。乱視が進行して、小さな文字が見えづらくなったことも一因だが、どうも気力も続かず大作は65爺には荷が重くなった。未だ1/5程で停滞している。そんな状態の中、同時に石光真清の「城下町の人」と、真清の子息・真人氏の「ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書」を読んでいる。「神風連」からのひっぱりである。後の二冊のほうが、先に読了となることは間違いない。「夜明け」はいつ来るのか・・・一月ほど先の話になりそう。(会津の話にはいつも泣かされる)
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ねた切れ状態

2007-09-06 16:30:43 | 徒然
 わが侍帳は毎日更新をモットーにやってきたが、いよいよねた切れ状態になってきた。あらゆるデーターを打ち込んできたが、新たな情報もそう望めないようだ。そろそろ年貢を納めようかとも思うのだが、何かないかと七転八倒している。かつてある方から、文政期位のものではないかと思われる屋敷図を頂戴した。この図には左右のお宅の名前が入っており、この場所が何処なのかを特定したいと思ってきたが、未だ判明しない。「新熊本市史」にある「地図編」は、ゼンリン並で、二つの時代について屋敷跡を確認する事が出来る。数年前来熊された方に、屋敷跡をお教えしたらいたく感激された事を思い出して、侍帳に屋敷跡の表示できないかと思いついた。寝床の中で、ああすれば、こうしようと考えていたら今朝ほどは些か睡眠不足気味である。これはやりだしたら二三年は覚悟しなければならない。どうする津々堂・・・・
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旧主を考える-6 森長可・忠政&右京大夫

2007-09-06 08:00:11 | 歴史
 長可・忠政は、本能寺に於いて信長に殉じた蘭丸・坊丸・力丸の兄と弟である。兄長可は美濃金山城主、長久手の戦いの際別働隊として岳父池田勝入とともに奮戦するが戦死、12歳年下の弟・忠政が家督することとなる。長可室(池田勝入女)は中村一氏に再嫁。忠政室は豊臣秀次養女である。

 細川家家臣大洞杢右衛門は、細川忠利の懇請により召し寄せられた北条流の軍学者である。時は将に島原一揆が勃発したばかりで、杢右衛門は戦場に駆けつけ忠利にお目見えを果たしている。この杢右衛門の先主が森右京大夫(忠廣)である。忠政の継嗣であろうと思われるが、父忠政より早死にした(30歳)正室は将軍家養女だが、三年ほど早く亡くなっている。忠政の跡は右京大夫の弟・長継が継いだ。この時杢左衛門は牢人し、軍学を北条氏長に学んだらしい。祖父五左衛門は、森長可に従い戦死している。父弥次右衛門は何故か森家を離れている。
 又、讃岐18万石尾藤知宣(秀吉により殺害された)の子・金左衛門は、福島正則の元にあったが、正則改易後一時期森忠政の元にあったようだ。その後細川家が召し寄せる事になった。
 
 森家については、「森家史料研究会」の素晴らしいサイトがある。
私はその主宰者S氏から、「森家大系図」というS氏の一著をご寄贈いただいた。この一文もその史料がなければ書き得なかった。感謝。
 
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旧主を考える-5 赤松(斎村)左兵衛

2007-09-05 09:54:50 | 歴史
 興津景一、井門亀右衛門の旧主が赤松氏である。但馬竹田城主22,000石で、細川幽齋が田邊城に籠城したさい討手の一将として加わった。後東軍に転じるが、無益に城下に火を放ったことを家康に咎められて、切腹を仰せ付けられ赤松家は絶家する。
 さて、田邊城攻撃に当たっての二人の行動は、森鴎外の「興津彌五右衛門の遺書」に詳しい。忠興が田邊城へ送った使者・森三左衛門は興津景一の縁類であったが、景一は井門亀右衛門と謀り、三左衛門を城内に入れる事に尽力したという。赤松家の改易後、景一は森三左衛門の紹介によって忠興に召し出された。忠興の死に伴い、息・彌五右衛門景吉の殉死の模様を森鴎外が著した名作が「興津彌五右衛門の遺書」である。
 井戸亀右衛門の働きは、別途「北村甚太郎覚書」に詳細がある。其の働きぶりによって細川家に召し寄せられた。忠興の側近くにあって、後宇土細川家の家老職となる。(名君と称えられた宇土細川家六代藩主興文は、一時期井門家に養子として入っている)一族数家が細川家家臣となっているが、赤松氏家臣であったかどうかはよく分からない。

 二人の細川家の内通は、左兵衛は承知の上のことで有ったのだろうか。藤原惺窩に私淑援助するなど、文人の一面もあった。
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「沈黙のファイル」

2007-09-05 07:53:14 | 書籍・読書
 昨日の午前中、Yahooのトピックス欄をながめたら「瀬島龍三氏死去」とある。本棚を見つけると表記の本があった。共同通信社社会部編で第一刷は平成11年8月1日(新潮文庫)、副題「瀬島龍三とは何だったのか」とある。日本推理作家協会賞を受賞している。約10ヶ月で第七刷となり、私はそれを購入している。(元々は、平成8年4月共同通信社から刊行されている)読みかけのほかの本を小休止して、数時間掛けて読了。再び読むことはないだろうと本棚に戻した。
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旧主を考える-4 中村一氏・一忠

2007-09-04 10:40:01 | 歴史
 私の歴史狂いの過程で、肥後中村家との出会いは象徴的である。数年前「肥後中村恕齋日録」という本が刊行されたときすぐさまこれを購入して、熟読感銘を受けたものである。そして肥後中村家が、中村一氏のご子孫である事を知り、また肥後金春流中村家を今日まで継承されていることを知った。
 一方、細川幽齋の田邊城籠城についての勉強の過程で、当サイトを通じて東京在住の沢村氏とご厚誼をいただくことになった。沢村家の祖は籠城時、幽齋の命を受け敵中を突破して禁裏への使いを果たした中村甚左衛門である。沢村と改姓したのは、「沢村大学吉重(家老)と一類同様に」との主命によるものである。又、「肥後中村恕齋日録」から、中村甚左衛門が中村一氏の子であることが判明、沢村家のルーツが詳らかになったのである。
400年余の時空を越えて、中村一族の新たな交流が始まっている。

 細川家家臣としては藪氏、金子氏等が確認される。藪氏については2006年7月のブログに書いたので詳細は省くが、息女が織田(長岡)信友に嫁いでいる。のちに立藩し柏原藩織田家となった。細川家との係わりも深い。
 金子喜左衛門も一忠(金子氏先祖附には一学とある)の没後牢人し、忠興代召抱えられている。どのような伝手があったのか、案外藪氏の肝煎りがあったのかもしれない。

 昨日の熊本日日新聞は、肥後金春流中村家のご子息一路氏を紙面で紹介している。金春流シテ方として努力研鑚を重ねておられる。益々のご活躍を期待したい。
又、肥後中村恕齋日録・第二巻(全12巻トカ)の発刊を首を長くして待っている。
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へっぴり腰で600メートル

2007-09-03 08:14:56 | 徒然
 土日を友人達と由布院に遊んだ妻が、帰ってきてさかんに足をもんでいる。大分県九重町に去年完成した、高さ173mの「九重夢の大吊橋」に行って来たのだという。長さは390m、巾1.5mだそうだが、妻に言わせると「揺れ方が並ではない」らしい。おまけに床面は透けて下が見えるらしい。素晴らしい景色に促されて、好奇心が先に立ったのだろう、手すりにしがみつき上下に揺れる度に大声をあげ、足をふんばりながら600mを往復したのだそうな。結果足がこわってしまったらしい。完成して10ヶ月位だろう、評判を呼んで九重高原の強力な観光スポットになった。

 私はといえば、こちらは萎えた足の老犬の世話をしながら、読書三昧・・・。うまいものを食ってるのだろうなーと思いながら店屋物。

お土産の披露を受けながら、楽しそうな妻の話に「又、どうぞ」
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細川家と公卿衆-Ⅲ

2007-09-02 18:09:16 | 歴史
 侍帳を覗いてみよう。
「妙解院忠利公御代於豊前・御侍衆併軽輩末々共ニ」には、忠興息女萬の知行として「二千石八斗一升四合五勺 右三齋様御姫烏丸中納言藤原光賢卿北ノ方 御末女也」とある。烏丸家は、ある資料によると知行は954石とあり、萬への知行の大きさに忠興の溺愛振りが伺われる。

「御侍帳・元禄五年頃カ」には、御上衆として、
  千石        烏丸宰相様
     内
    四百五十石   裏松宰相様
    二百石     七条侍従様
    二百石     勘解由小路様
    五十石     春宵院様
    百石      栄春院様
  百石        久世三位中将様御息女 久姫様
  三十人扶持     下冷泉中将様     等とある。
 
 この烏丸宰相とは誰なのか、12代光雄(光賢の孫)は元禄3年に亡くなっているので、13代・宣定であろうか。裏松宰相、七条侍従、勘解由小路等の細川家との係わりは分からない。春宵院・栄春院も不明である。
 久世三位中将とは、細川忠隆女トクが嫁した久世家であろうと思われる。忠隆はトクの為に自らの知行の分知を願って亡くなっているが、これがそうであろうか。「真源院様御代御侍名附」には、休無様御息女達として九百廿石とあるが・・・
 下冷泉家と細川家の関係は、私の知識の範囲では皆目見当がつかない。
いずれにしろ、藩主の手許から合力されたものであろう。
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細川家と公卿衆-Ⅱ

2007-09-02 08:41:12 | 歴史
 京都大学附属図書館所蔵の中院文庫にある『中院家略系図』によると、中院通勝の子は孝以、通村、女子、親賢(北畠)、周芳とあり、生母は全て細川兵部大輔藤孝入道幽齋女・實一色左京大夫義次女幽齋孫とある。通村が継嗣となっているのは、長男孝以が若くして亡くなったせいであろう。通勝は正親町天皇の勅勘をこうむり、天正八年(1580)から慶長四年(1599)まで、丹後国舞鶴に配流されている。そこで生まれた子供たちであろう。
さて、慶長五年(1600年)細川幽齋は田邊城に籠城する事と成るが、幽齋の歌道や古典学の学識の絶える事を恐れ、朝廷から和議の使者が再三送られた。最後の使者となったのが、中院中納言通勝・三条西大納言実条・烏丸中将光広等である。
この三人は、幽齋と歌道等においては師弟の間柄であると共に、三家は親戚関係でもある。時に通勝44歳、実条25歳、光広21歳であるが、通勝は実条の大叔父に当たると共に上記の如く幽齋の壻である。光広は息光賢に忠興息女が嫁している。

 数度の使者を送り不調に終わった斡旋も、19年間幽齋の側にあった通勝を始め、親しい間柄の公卿を派遣して最後の望みを託したのであろう。交渉はようやく成立して、幽齋は城を出ることになるのである。

 後日談
慶長14年、いわゆる猪熊事件と呼ばれる公卿の乱行事件が勃発、烏丸光弘も連座して二年間の勅勘を受けている。この事件は後陽成天皇の怒りを買ったが、幕府の不当な介入により処断が成された。天皇の退位へと繋がって行く。
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クラス会

2007-09-01 09:46:30 | 徒然
 高校のクラス会名簿が送られてきた。四年に一度、オリンピックが開催される年にクラス会を開いている。卒業以来続いている。全国に散らばったクラスメートが、喜々とした顔で集まってくる。私は今でも出席簿順に54名の名前(苗字だけだが)諳んじているが、そのうちの6名が物故者となった。なんといっても凄いのは、たった一人を除いて現住所が確認されている事だろう。数人の幹事の努力に他ならない。65歳にもなると、勢い話題は家族とりわけ孫自慢などと相成る。クラスの担任もご健在で必ず出席されるが、話は現役時代と同様堅い。そして曰く「孫の教育は親に任せて口出しするな」・・「おや先生、なかなか良いこつば言うじゃなかですか」とかってのわるごろが悪態をつく。「今は躾がなっとらんけん爺としても口ば挟もうごてなるもんな」などと、自分の学生時代の悪行は棚に上げての話に座は多いに賑わったものだ。毎回正月3日ときめられていたが、次回からは5月の連休を利用してと変更されたみたいだ。腕に自身がある連中は翌日、些か二日酔い気味でゴルフを楽しんだりする。卒業して47年、逢えばかわらぬ少年気分である。
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