細川家家臣町氏は、長曾我部元親の弟吉良親貞の子・吉良左京進親実を祖としている。左京進の子、町源右衛門が元和元年(1615)江戸に於いて忠興に召し出された。江戸留守居役などを勤め300石。寛永13年(1636)細川光尚室彌々はの出産後の肥立ちが悪く母子共に亡くなるが、忠興はその状況報告が悪かったとして激怒し、源右衛門の扶持を召し放った。光尚の口止めの故とされ、後の召し出しが約束されたが、光尚の死により召し出しは叶わなかった。源右衛門は堀田正盛に仕えた。源右衛門の長男・三右衛門、二男・市之丞家ニ家が明治に至った。家名の町(ちょう)は、長曾我部の「ちょう」に由来している。
久武家は、久武蔵之助親直を祖とするが、兄久武親信の死後長曾我部家の家老となり、主家の継嗣問題で対立する人たちを死に至らしめ、長曾我部家没落の因を造ったとも伝えられる。加藤清正に随身し1,000石。加藤家改易後牢人したが、後旧主家筋の「町氏」を頼り細川家に仕えた。
我が家の五代目室が久武氏、下って母の実家T家に久武氏が嫁しており、私は二重にそのDNAを受け継いでいる。
長元記(長曾我部元親記)を著した立石助兵衛(正賀)は、土佐の旧主一条兼定から長曾我部元親に仕えたといわれる。久武親信と共に戦功をたて、元親逝去の折には遺言を受けた重臣である。細川家に仕え1,500石。細川家侍帳の「立石家」項に助兵衛の名は見えないが、元禄五年の侍帳に「個人」としての名が見える。立石家と助兵衛の関係は未確認である。
糸川家も又、長曾我部家臣とする話があるが、細川家においては「丹後以来」の家として扱われている。このことについても未確認である。
久武家は、久武蔵之助親直を祖とするが、兄久武親信の死後長曾我部家の家老となり、主家の継嗣問題で対立する人たちを死に至らしめ、長曾我部家没落の因を造ったとも伝えられる。加藤清正に随身し1,000石。加藤家改易後牢人したが、後旧主家筋の「町氏」を頼り細川家に仕えた。
我が家の五代目室が久武氏、下って母の実家T家に久武氏が嫁しており、私は二重にそのDNAを受け継いでいる。
長元記(長曾我部元親記)を著した立石助兵衛(正賀)は、土佐の旧主一条兼定から長曾我部元親に仕えたといわれる。久武親信と共に戦功をたて、元親逝去の折には遺言を受けた重臣である。細川家に仕え1,500石。細川家侍帳の「立石家」項に助兵衛の名は見えないが、元禄五年の侍帳に「個人」としての名が見える。立石家と助兵衛の関係は未確認である。
糸川家も又、長曾我部家臣とする話があるが、細川家においては「丹後以来」の家として扱われている。このことについても未確認である。