津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

旧主を考える-9 長曾我部家

2007-09-17 13:03:40 | 歴史
 細川家家臣町氏は、長曾我部元親の弟吉良親貞の子・吉良左京進親実を祖としている。左京進の子、町源右衛門が元和元年(1615)江戸に於いて忠興に召し出された。江戸留守居役などを勤め300石。寛永13年(1636)細川光尚室彌々はの出産後の肥立ちが悪く母子共に亡くなるが、忠興はその状況報告が悪かったとして激怒し、源右衛門の扶持を召し放った。光尚の口止めの故とされ、後の召し出しが約束されたが、光尚の死により召し出しは叶わなかった。源右衛門は堀田正盛に仕えた。源右衛門の長男・三右衛門、二男・市之丞家ニ家が明治に至った。家名の町(ちょう)は、長曾我部の「ちょう」に由来している。
 
 久武家は、久武蔵之助親直を祖とするが、兄久武親信の死後長曾我部家の家老となり、主家の継嗣問題で対立する人たちを死に至らしめ、長曾我部家没落の因を造ったとも伝えられる。加藤清正に随身し1,000石。加藤家改易後牢人したが、後旧主家筋の「町氏」を頼り細川家に仕えた。
我が家の五代目室が久武氏、下って母の実家T家に久武氏が嫁しており、私は二重にそのDNAを受け継いでいる。
 
 長元記(長曾我部元親記)を著した立石助兵衛(正賀)は、土佐の旧主一条兼定から長曾我部元親に仕えたといわれる。久武親信と共に戦功をたて、元親逝去の折には遺言を受けた重臣である。細川家に仕え1,500石。細川家侍帳の「立石家」項に助兵衛の名は見えないが、元禄五年の侍帳に「個人」としての名が見える。立石家と助兵衛の関係は未確認である。
 
 糸川家も又、長曾我部家臣とする話があるが、細川家においては「丹後以来」の家として扱われている。このことについても未確認である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

只今読書中

2007-09-16 13:21:59 | 書籍・読書
 佐高信著「西郷隆盛伝説」を読んでいる。幕末の庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち事件は、西郷の相楽総三らを使っての陽動作戦であるが、この事件により戦端が開けたともいえる。会津にたいしての過酷な扱いに対し、西郷はこの庄内藩に対しては温情をもって遇した。著者佐高はその庄内の出身である。西南の役において庄内から二人の若い元藩士が西郷軍に参加して早々に戦死している。庄内の人たちは西郷を尊敬したというが、そんな切り口からさまざまな西郷像が浮かび上がってきて、興味深い著作ではある。

 山田風太郎の「エドの舞踏会」は、功なり名を遂げた元勲といわれる人たちと、その夫人達の悲喜劇である。泉下の西郷が見ればさぞかし眉をひそめた事であろう。いつの時代も勝者のいかがわしい振る舞いは共通のものらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めぐり合わせ

2007-09-16 11:00:08 | 歴史
 或る方から「狩野直喜」他について、お尋ねをいただいたので資料つくりをしている。直喜は祖母の叔父に当たるという事も有り、些かの資料は持っているが、その著作その他をこの際まとめようと思い、インターネットでサーフィンしていると、義和団事件にたどり着いた。なんと言うことだろうか、先日まで読んでいた石光真人著の「ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書」の主人公柴五郎が、あの時籠城の指揮をしていた事は承知していたが、その中に「狩野直喜」が共に篭城していた事実を知った。柴五郎と狩野との間に接点があるとも思えないが、不思議な巡りあわせではある。事件後外務省には文化事業部が創設され、中国に関係する諸団体へ補助を行ったりしている。その一つに京都大学人文科学研究所東方部が含まれている。狩野は東方文化学院京都研究所の初代所長となった。吾が祖父は狩野の姪を妻にして、ちょうどその時期、平壌日(本)語学校の校長を務めたりしているが、どうも狩野の影がちらつく。国立教育研究所紀要(第115集)の「旧韓末・日語学校の日本人教師」の中で、稲葉継雄先生は吾が祖父をして「膨張主義の国士」とされる。どうも血の気の多い人だったらしい。私が二歳の時に亡くなった祖父の、僅かに覗える足跡である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛宕山

2007-09-15 17:41:57 | memo
 細川家関係資料に良く出てくる「愛宕山」は、七高山の一つといわれた霊山であり、朝日山白雲寺を別当寺とする、嵯峨大覚寺が所管する真言宗の修験道場であった。教学院(下の坊)・福寿院(上の坊)・勝地院(長床坊)・法蔵坊・威徳坊(西の院)・大膳院の六つの宿坊があった。細川家とは下坊や福寿院が係わり深い。地蔵信仰に基づく勝軍地蔵本草としているが、「勝ち戦」の縁起を担ぎ武士の間で強い信仰を得た。徳川家康は江戸入りするとすぐに、幕府西方の守護神として勧進し愛宕神社を建立した。(東方は東叡山寛永寺)慶應四年の神仏分離の布告により、寺を廃して愛宕神社となり今日にいたっている。全国に分社800余りを有し、火伏せの神様として信仰を得ている。京都市右京区嵯峨愛宕町1番地、愛宕山山頂に鎮座している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだまだある

2007-09-14 15:00:05 | 歴史
 今日の熊本日日新聞は、天草島原の乱の幕府軍総大将・松平信綱の、「天草四郎生け捕り」を指示する文書が発見されたことを報じている。これは直接の指示書ではないが、細川忠利が「生け捕り」を提案した手紙に対する返書で、全軍に「生け捕り」を指示したい旨の同意を求めるものであるらしい。総攻撃前日のものとされるが、天草四郎は陣佐々衛門により討ち取られるが、佐々衛門はそれが四郎であることを知らなかったらしい。今月末まで、城南町の歴史民族資料館で公開されているらしい。

 過日芦屋在住のT氏から、御軸に仕立てられた幽齋公の御筆の写真を頂戴した。ご親戚のお宅にあったものらしいが、「昌山公」という文字が見られ足利義昭公御物之御太刀に関するものらしいが、訓下が完璧ではなく早晩の解読が期待される。このような貴重なものが発見され、それらに接することの出来る事は嬉しい限りで、この後もいろいろ発見される事を望んでやまない。

 いままで頂戴した貴重な写真を、当サイト内にギャラリーを作って、ご披露したいと考えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「遊学一巻帳」より

2007-09-14 09:36:38 | 歴史
 神護寺支配・奥山敬造という人は長崎表に遊学していたが、満期を迎え帰郷再遊学を申請するに当たり、学校方はテストを行っている。これがなかなか興味深い。尾崎又八なる人が、その結果を学校局に対し次のように返答している。

             覚
奥山敬造儀遊学中卒業致候書籍之内始中終三ヶ所意訳方被仰付候処右訳文相認候ニ付意味之当否判定致候様被仰付候間荒増取調申候処一二ヶ所意味違有之候様相考申候(以下略)

 そして「二ヶ年之■期限ニ而者大抵右位之失意者可有奉存候」と弁護をして、再遊学を許可していいのではないかとし、「仰付候ハヽ再遊期間中ニ者相応ニ成熟仕御用ニ相立可申見込申候(以下略)」と返答している。

「一二箇所意味が違うところがある。まあ二年位ではこんなところだろう。再度遊学が認められれば、相応に勉強も進んで、お役に立つ事が出来るだろう」と云う事だろうか。それにしても訳文が凄いですねー。

          奥山敬造訳文
 草稿
translate that    其事件ヲ通弁セヨ
it is too difficult   其レハ甚タ難シキコトテ有ル
it is not at all difficult
           其事件ハ悉ク難キコトテハ無イ乎
it is very easy   其事件ハ容易コト多シ
translate word for word
           彼ノ言葉ヲ我言葉ニテ通弁セヨ
try,if you please  若シ汝カ好ムナラハ此事ヲ試ムベシ
reade it once more  此事ヲ試シト欲セハ先ツ其書を読誦セヨ
with pleasure yery(ママ very カ)willingly
          楽ンテ読誦スルヲ良トス
breakfast   朝食
sit there sir  汝此処ニ座セヨ
do you take tea or coffee  汝ハ茶ヤコッヒーヲ好メリヤ
would you prefer chocolate 汝ハチョコレート(食物ノ名)ヲ好乎
i prefer a cup of coffee   吾ニコッヒーノ一杯ヲ与ヨ
do you take milk with your coffee
          汝ハコッヒーノ代リニ乳汁ヲ呑ン乎
yery(ママ very カ)little milk if you pleass(ママ please カ)
          若シ汝カ好ム所ナレハ吾レ此乳汁ヲ恵マン
i take milk and sugar with it
          夫レ乳汁ト砂糖トヲ随意ニ用ヨ
dentist  歯医師
what is the matter sir  君カ持病ハ何ナル乎
i have the tooth-ache  吾持病ハ歯痛ナリ
i ■■rrer very much   吾ハ汝ノ病ノ為メニ害ヲ受ルコト多シ
i know what tooth-ache is
      吾歯痛ノ発ル所由ハ知リタレトモ之ヲ治スルコト能ハス
but you have very fine teeth
      乍然汝之歯ハ美麗潔白ナリ吾此薬ヲ与ン之ヲ試ヨ
i beg your pardon, i have two decayed ones
      汝ノ診察誤レリ今汝ノ薬ヲ僅ニ塗リテ却テ疼痛ヲ増シタ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧主を考える-8 宮部継潤・長煕

2007-09-13 07:45:17 | 歴史
 肥後細川藩士・芦田与兵衛、国友若狭の旧主である。継潤は善祥坊の名乗りの通り僧籍の出である。近江浅井氏の家臣であったが、これを裏切って秀吉の与力となった。本能寺の変後鳥取城主(50,000石)慶長元年息長煕(長房)に家督を譲る。慶長四年(1599)死去。一方長煕は関が原戦(慶長五年)に於いては一旦東軍に就くが、途中で西軍につきのち改易となる。家臣田中吉政(後・柳川城主)の画策だとされるが真偽は定かではない。

■芦田与兵衛は牢人し、慶長六年(1601)大阪に於いて忠興にお目見えし、大阪の陣に於いて活躍している。
■一方国友若狭は田中吉政に随い柳川入り、田中氏没落後細川家家臣となった。(田中吉政項参照)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医食同源

2007-09-12 13:37:11 | 熊本
 「胃の薬、頭痛薬、足腰の痛み止めの薬・・・そぎゃんいっぱい薬ば飲むと泡吹くバイ」 ご老人を前にして、公立菊池養生園の名誉医院長竹熊宣熊氏の話である。「バケツにな、ああた達が飲む薬ば一月分入れち、水ばチイート入れて置いとくと、反応してあぶく(泡)の発つて思わんね・・・」ひげ面で熊本弁丸出しで、百姓医者とも呼ばれる竹熊先生のこんな話は、聞く人たちに「ご尤も」と思わせる説得力がある。菊池市外五ケ町による公立病院だったが、現在は診療所として予防医学や漢方治療などにも力を入れている、ユニークな診療所である。そしてフアンも多い。「医は農に、農は自然に学べ」をモットーに「薬は止めち、綺麗か水ば飲んで、お百姓さんの作んなはったうまか野菜ば食うて、うまか空気ば吸うて運動すっと病気は退散する」と力説される。

 いささか疲れ気味の私は、ビタミン剤と数錠の健康薬品を口に含みながら、かって聞いた先生の講演があざやかに頭をよぎった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随兵寒合(がんや)

2007-09-12 08:56:49 | 熊本
 藤崎八旛宮の秋の例大祭(随兵祭り)の時期(9/13~9/17)になると、熊本の季節は急激な変化を見せる。お昼の間はそうでもないが、朝夕の涼しさといったらつい一週間前とは雲泥の差がある。随兵寒合と呼んでいる。今朝ほど私は、タオルケットを掻き込んで丸くなって寝ていたが、寝起き一番大きなくしゃみである。今日は毛布を準備しなければならない。
 このお祭りのクライマックスは、17日の「随兵」と呼ばれる武者行列と、飾り馬を追い立てる馬追いである。「朝随兵」と「夕随兵」とで、この日は68頭の馬とその勢子達の威勢の良い掛け声で終日大賑わいとなる。かっては「ぼした祭り」とも呼ばれた。加藤清正が朝鮮を滅ぼしたとして「ぼした、ぼした」と掛け声したことに由来するようだ。近年、主宰者側はその由来を否定すると共に「ぼした」と掛け声する事を禁じた。あのラフカディオハーン(小泉八雲・当時五校、現熊本大学教授)は、このお祭りの様子を東京の友人に手紙した折、祭りの由来を書き「朝鮮征伐」から来たものだと述べている。祭り好きの連中は、明日の「飾り馬おろし」から五日間、日頃の憂さを晴らすように、街中を馬と共に走り回る事になる。こうして熊本の秋は深まって行く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧主を考える-7 豊後・大友氏-2(追記)

2007-09-11 18:35:06 | 歴史
■吉海(ヨシガイ)氏 元大友家臣、大友氏没落後筑後住、寛永十年杢右衛門代清田石見臣となる。その息平兵衛細川直臣となる。
■平井氏 先祖・平井薩摩守は大友家臣、豊前萬田城にて戦死。息(大村)久兵衛代三齋公に仕える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋風のたよりに聞けば・・

2007-09-11 17:34:13 | 歴史
 あることがきっかけで、玄祖父・上田久兵衛の資料を整理している。明治十年五月から約五ヶ月間獄にあった久兵衛は、九月三十日一枚の「申渡」により「斬」の刑を受けた。そんな書類も出てきた。切なくて脱力感が被う。後に名誉は回復されたが、遺族の悲しみや無念さは未だ継続している。過日久兵衛の旧宅付近を歩いてみた。半田村、現在の熊本市城山半田町であるが、ご多分に漏れず開発の波をうけて様変わりしているが。しかしまだかすかにかってののどかな有様が覗えるようである。愛する妻が住まいしたこの場所には、豊かな萩の花が風に揺られて咲いていたのだろう。玄祖父の辞世はいつ目にしても涙を禁じえない。
 秋風のたよりに聞けば古里の 萩が花つま今盛りなり
 
まだ日の目を見ることなく、数冊の久兵衛の日録が私の手許にある。玄祖父の足跡を何とか残したいと頑張っているが、遅々として進まない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸家系図

2007-09-10 13:29:36 | 歴史
 私は活字化されていない肥後藩士諸家の系図を、いろいろな文書の中から収集してきた。素人の私にとっては、大変難しい作業で未だ10点にも満たない。昨日図書館に出向いた折、ふと思い至った事がある。切支丹禁令が出された折、棄教した者もしなかった者も、その子孫については厳しい監視の目が向けられたと言う事実である。上妻文庫の中に13冊に及ぶ肥後切支丹に関する文書が有るが、その中に三巻の「肥後藩切支丹の系統」と言うものがあるのに気づいた。その上巻が「肥後之国部」であり、まさしくそれが私が求めていたものだった。藩士、陪臣、浪人他町人農民に至る、かつての「転び切支丹」であった人たちの膨大な系図が記されている。(中・下巻は豊後の関係でその殆どは百姓である)その系図は、我々が通常承知している表面的な系図とは違い、詳細が凄い。類族の消息などの書き込みがあり、婚姻関係が確認されるなど興味深い。松野(大友)氏、清田氏、河喜多氏、加賀山氏、奥田氏、須佐美氏、白井氏、上津浦氏、野田氏、瀬崎氏、財津氏、飯洞氏、芳賀氏、天草氏、佐藤氏、河村氏、鯛瀬氏などの情報を得て満足の極みである。「侍帳」への書き込み作業に移らねば成らない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人吉相良藩を考える-2

2007-09-10 12:04:06 | 歴史
 10/9 五時間ほどを県立図書館ですごす。人吉市史や西米良村史を拾い読み。米良氏についての知識を少々増やす事が出来た。特に西米良村史は中々良い。下手なドキュメンタリーよりも数段面白く、時間を忘れてしまった。相良藩は度重なる内紛や、大変危うい家督相続を繰り返しているが、よくぞ改易を免れたものだと感心する。大森映子氏の著「お家相続・大名家の苦悩」に詳しい。人吉(球磨)モンローと言う言葉があるが、長い相良氏支配や、四方を山に囲まれた閉鎖的立地などの歴史が培ったものだろう。高速道の開通によって、人の行き来の自由度が飛躍的に増し、かっての閉鎖的環境や思考にも風穴が開いたように思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人吉相良藩を考える-1

2007-09-09 09:45:11 | 歴史
 熊本県南人吉地方は、相良氏の領地(相良藩)である。鎌倉期の古いお寺などがあちこちに見られ、古い歴史と文化を肌身に感じる事ができる。現在は球磨焼酎の里として脚光を浴びている。球磨川河畔にある人吉城は、早朝は名物の朝霧につつまれ薄墨の中に姿を隠すが、陽光を受け霧が晴れてくると雄大な姿を表してくる。一名繊月城とも呼ばれるが、いかにも高く上った三ヶ月が似合いそうである。熊本の名家菊池家は没落後、宮崎の米良地方に入り米良氏を名乗る。何時の頃からか米良氏は、相良藩に附庸という家格を経て迎えられる。その待遇は家老を凌いでいる。勉強不足でよく理解できないでいるのは、この米良氏が徳川幕府の「寄合交代衆」の家格を持ち、参勤交代し歴代将軍に挨拶に伺候しているという事実である。明治に至り米良氏は菊地の家名にもどして爵位を得た。相良家における附庸という立場も、「菊池氏の後胤」が作用したのだろうか。明治の一時期、宮崎米良地方が人吉縣に入れられたことがある。その経緯は不勉強で全く知りえないが大変興味深い。
 この相良氏は藩の存続には大変な苦労をしている。家臣団の対立が様様な事件を起こしている。又相良家の家督問題も複雑である。このことは稿を改めたい。
 静かな人吉盆地は、そんな生臭い過去の有った事を知らぬ気に、秋の気配が深まっていく。私は自分の生業を通じて、この人吉地方に接してきたが、その歴史の深さを知らなかった事に反省している。遅ればせながらの勉強を始めようと考えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治十年二月十七日

2007-09-08 20:25:07 | memo
 人民動静 熊本県
一、九日(二月)午前一時出発、十一日午後四時熊本ニ着シ候得バ市街ハ一  般ニ何カ穏ヤカナラズ、家具等ハ総テ取マトメ、又老雅ノ者ハ難テ熊本ノ鄙邑ニ行ク者アリ。
一、熊本県士族上田休兵衛、宮川久米、此ノ二人ハ是マデ私塾ヲ開キ兼テ鹿児島辺エモ往来シ、又ハ当時勢ニ不服者ノ由、因テ探偵仕候得バ此ノ党ハ不義ノ挙ハ有ル間敷奉存候。(上田ハ川尻町奉行を称し民政を布き薩軍に与して八月斬罪、宮川は日向に潜伏十余年免罪)
一、池辺吉十郎氏ノ党ハ甚ダ多シ、人望有ル人ニテ熊本ノ動静ハ此ノ人ノ議ニ決スルト云フ也、併シ大義名分無キニハ妄ニ事ヲ挙ゲズト云フ論也。
一、宮崎八郎ハ兼テ鹿児島ニ往来シ又民権論ヲ主張シ、既ニ先日熊本ニ一揆ノ兆シ有ルモ此ノ党ノ為ス処ト云フ。
一、神風連之中或ハ病気又ハ旅中ニテ既ニ先日ノ挙ニ及バザルヲ恨ミ、動モスレバ暴発ノ兆モ有ル由ニ候共、誰某ノ説諭中ト乎云フ、尤此ノ党ノ首謀ハ福田萬太郎、梅田作十郎此二人ナル由
一、鹿児島之挙有ル時ハ、随テ熊本一般其党派ヲ問ハズ鹿児島ニ饗応ズルノ勢ヒ也。
一、鎮台士官某、鹿児島ニ火薬請取リニ行キ路ニ縛ニ就クト云フ、或ハ信(真)否明了ナラザルトモ云ヘリ。
一、鎮台ハ七日頃ヨリシテ食物等ヲ求メ大ニ備ヘヲ為セリ。
一、熊本士族諸所ニ集会スル由、併シ其議論ハ未ダ何等ノ議論タルカ審カニセズ。
一、十四日ヨリ鎮台ニ行ク要害ノ地ハ総テ兵ニテ堅メ居レリ。
一、熊本ニテハ刀剣ト見ヘシ物ヲ袋ニ入レテ以(持)テ歩行スル者往々有リ。
一、熊本士族等ハ火薬ノ類ヲ窃ニ買ヒ入レ候者モ之レ有ル由。
右熊本探索之始終、如是御座候也
   明治十年二月十七日    立石栄蔵

 (小寺鉄之助著:西南の役薩軍口供書より)

参考 
2/15西郷軍進発 2/17西郷隆盛出発 2/19「鹿児島県逆徒征勅」発せらる・同日熊本城火災焼失 2/21西郷軍熊本城包囲
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする