津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御の字

2008-02-20 15:48:21 | 徒然
 「御の字」という言葉は、もう時代劇の世界の言葉だと思うのだが、辞書検索をしてみたら次のように出た。

《江戸初期の遊里語から出た語。「御」の字を付けて呼ぶべきほどのもの、の意から》1 非常に結構なこと。望んだことがかなって十分満足できること。「出費がこの程度で済めば―だ」2 最上のもの。 「―の太夫」〈... [さらに]
        
とある。八っあん・熊さんが使いそうな言葉だが、現代人も結構使っているようだ。
 処が『御』の字は、古文書に中にはうようよしている。御家老・御番頭・御奉行・御小姓、さらには御茶道・御医師・御庄屋・御職人等々きりがない。全て「御上のもの」という発想である。御鷹・御犬は言うに及ばず、御駕籠・御舟とくる。「御パレード」である。通常の会話の中でも「御」は省かれる事はない。「付けりゃー良いってもんじゃーなかろう」と思うのだが、所用で出かけた銀行で「御印鑑・御印鑑」と何度もやられて、「私のは判子ですから」とちょっと嫌味で言ってつもりが・・・通じた様子がない。

八っあん・熊さんなら、「判子・・御の字じゃーねえか」と言ってくれそうだが。


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匂い

2008-02-19 16:01:50 | 徒然
 ニ階の南西に位置する私の部屋は、今日はお日様サンサンで室温20.5度もうすっかり春です。お向かいさんの屋根に偵察にやって来たスズメを発見、小さく刻んだパンくずを撒いてやると、数分後ニ十匹ほどのスズメの大群が狭い庭を占領してしまいました。「ごえもん」の小屋もすっかり片付けて、僅かに広くなった庭におりてみると、まだかすかに「ごえもん」の匂いが残っています。小さな骨壷の前に妻がバレンタインチョコを置きました。妻の「さみしいねー」の一言が、最近富に涙腺が緩んできた私には、すごく応えるのです。この匂いが完全になくなる頃には、「ごえもん」離れが出来るのでしょうか。
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細川家御家流甲冑師・西村氏

2008-02-19 10:48:55 | memo
 或る方から西村与兵衛について、お尋ねを頂いた。あわてて綿孝輯録の頁を追廻し、次のような記述を発見し報告、肩の荷を下ろした。ちなみに「妙解院殿忠利公御代於小倉・御侍帳并軽輩末々共ニ」には、「三齋様御附中津ニ相詰候衆」の中に、「百石西村具足屋与左衛門」と見える。又綿孝輯録に於ける「三齋君ニ御奉公御知行被下置面々」には御職人衆として、「御具足屋 与左衛門 百石」とある。


同月(元和三年五月)甲冑を被差上候、去元和元年西村与左衛門江被仰付置致出来候、作者之儀公儀御帳面ニ被記候間、書付被差出候様ニと土井大炊頭殿御申候、依之西村与左衛門と申者細工を起用ニ仕候ニ付、御工夫之一通御伝授被成候間、此者ニ被仰付候段御書付大炊頭殿江御達被成、与左衛門ニは其方冥加ニ叶候由被成御意、古和泉守之御刀を被為拝領候

甲冑之儀御若年より数度御戦功御募被成、後は働之邪广(魔)になると思召所ハ、御物数寄ニ而御具足御仕直し被成候由、初ハ奈良之春田又左衛門ニ被仰付、威ハ左京と云具足師ニ細工之仕法御習うけ、御手つから御細工被成候、有吉立行(細川家三家老有吉氏)も諸事御相談にて御一分ニ御具足出来候、其比西村雲斎と申候而幽齋(細川藤孝)君吉田(細川家屋敷)にて之御伽ニ数年御懇意之者有之、其忰西村忠兵衛と云浪人兼而立行(有吉氏)懇ニいたし、口入にて忠興君二被召出候へ共、急ニ居宅も無之先ツ立行台所之内ニ居候、或時忠兵衛着用の具足自身細工ニ繕候を立行見て、さて/\奇特と褒候ニ、忠兵衛申候ハ、古来より之物なれ共具足之調法よろしからす覚候ゆへ、工夫仕直し候とて其様を語る、立行よく聞て、忠興君江申上候ハ、西村か工夫之具足細工御前之御工夫同様にて不思議なる事と申候ゆへ、猶又御直ニ被聞召、忠兵衛たヽものに無之、新参なれ共其方兼而入魂といひ、其方と同しく手伝申付候へと被仰候、其後段々御具足も出来、忠兵衛細工思召之通ニ候間、一分ニ被仰付御細工御名代と立行を以被仰付、名を与左衛門と改被下候、夫よりハ御流儀を御預ケ被成、数多出来候而御家中歴々武功ある面々なとへ被下候も有之、比類を御家様之具足と云なり、右之子細あるいぇにや、正月十一日御具足御祝前日ニ与左衛門ニ御紋付之御上下被下、御当日ハ御前ニ罷出御鏡餅をならし差上、有吉武蔵壱人御相伴ニ而御祝被成、相残御鏡餅御樽肴被相添与左衛門拝領仕事恒例ニ而忠利君御代迄同前なり、与左衛門子忠兵衛を忠利君より与左衛門と御名付被成、其子忠兵衛今之忠兵衛まて五代具足之細工伝来仕候、重賢君御代宝暦四年十一月御家流之御具足永々御預被成旨被仰付候、元祖与左衛門居宅之作事仕候節、忠興君御成被遊候事有之、近代ニも細工所上より御作事被仰付候、又光尚君御具足御召初之時、与左衛門ニ細工被仰付候、御具足親ハ沢村大学相勤、依之右御具足出来之間ハ必多度与左衛門江大学参候間、大勢入込ミ妨ニ成も煩ハしとて、ミつから別口ニ門をしつらひ出入仕候由、夫故此口は今以沢村宇右衛門(大学子)より繕等仕候となり、近く寛政十一霜月十五日、斎樹君御具足御召初御家様之製当忠兵衛ニ被仰付、竹原雄助承りニ而出来候
                             (了)

         綿孝輯録・巻二十に所収の該当項抜粋です。       
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忠興女・万と有吉興道、その後の有吉家について

2008-02-18 17:47:49 | 歴史
  1        2      3      5
 有吉立言----立吉--+--興道----貞之----貞親
               |  4     (5)
               +--英貴----英安==尚常

 有吉興道は元和四年36歳で亡くなっている。嫡子貞之が幼少で有った為、弟英貴が相続したとされる。貞之への跡式相續がなされなかったのは、どうもそれだけが原因ではなかったようだ。
 「内膳(興道)儀武勇ハ親武蔵守(立吉)ニも不劣なれ共、御意ニ不叶儀有之、内膳跡御立不被成、武蔵跡を平吉(英貴)江被下、諸格式武蔵守通り被仰付候」と綿孝輯録は語る。そして「御意ニ不叶儀」とは「慶長七年之比忠興君より武蔵ニ御内意有之候ハ、お万様を嫡子興長江嫁とらるへきとの事ニ候江共」「興長所存有て御断申上度由」が原因らしい。嫁に取らせると忠興に言わしめた「万」こそ、愛娘のちに烏丸光賢に嫁ぎ、光尚室となる彌々を生む「万」である。「参考:(忠興元和元年)十月、おまん様・于時十八歳・を御同道ニ而、御上洛被成、十一月十九日烏丸光賢卿江御輿入れあり(以下略)」
その縁談を断った事が、とんだとばっちりを受けたことになる。
さて其の後の有吉家の系図に、私はいささかの疑問を持っている。

 (3)英貴・・寛永十年3,500石加増都合18,500石家老
 (4)貞之・・寛永十九年新知1,500石
 (5)貞親・・寛文十年部屋住にて家老職

(5)英安は細川忠利女竹を正室とし、正保二年三月跡式拝領している。父英貴の死の一月後のことである。承應二年十一月家老職、寛文二年五月26歳で京都で亡くなった。有吉家五代目は(5)英安ではないのかという素朴な疑問をもつのだが、如何であろうか。(5)貞親が部屋住みで家老職につくのは、寛文十年であるから辻褄も合う。
残念な事に「有吉家先祖附」を詳しく読んでいない。説得力のない話しなのだが・・・・
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免許更新

2008-02-18 14:09:26 | 徒然
 誕生日+1ヶ月の運転免許更新が、愛犬の世話などで延びのびになって残り二日となり、今日は慌てて免許センターへ出かけた。ブログにも書いたが、一旦停車違反でパトカーに追いかけられたことがあって(自分が追いかけられているとは思っていなかったのだが)、それが災いし二時間講習、期間も三年に成ってしまった。交通規則も変っているし、免許証の内容も変ったりして、たまには勉強をする為にも三年毎くらいが適当だろう(・・・負け惜しみだー・・・)。あと四年すると「高齢者マーク」とやらをつけなくては成らない。そのときには返上するか・・・。今日は片道30分チャリンコで風を切って行って来た。
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大往生

2008-02-18 13:28:16 | 徒然
 昨日わが家の愛犬「ごえもん」が、とうとう命尽きてしまいました。子供や孫達にいろんな思い出を作ってくれた、かけがえのない家族を失ってしまいましたが、18歳10ヶ月の大往生ですから、「お疲れ様」と天国に送りました。小さな骨壷に入って私たちと共にいます。
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下津宗政宛、忠利書状

2008-02-17 19:24:41 | 歴史
 寛永九年七月二十六日付の書状が興味深い。
下津宗政から鷂(はいたか)を譲り受けた事に対する礼状である。

 一筆申入候、貴様逸物之鷂御所持之由承及ニ付而、所望ニ存痛申入候處ニ、則被下、
 別而満足無申計候、為御禮先如此候、如何様面之刻可申述候、恐々謹言
   七月廿六日

  下津内記様
      御宿所

 この年六月朔日、下津氏の旧主加藤忠廣は改易され、庄内に配流される事が決定した。そして七月廿一日熊本城は開城されるのだが、この書状は其の五日後のものである。忠利が正式に肥後国拝領の沙汰を受けるのは十月一日、小倉帰国は十一月十一日である。鷂譲り受けの話しは、忠利が肥後国拝領が決定される前で、離国を余儀なくされるであろう下津氏に、鷂譲り受けの話しを持ち込んだものだろう。忠利が肥後に入り下津氏は細川家に仕官するわけだが、因縁を感じざるを得ない。加藤清正の懐刀下津棒庵は父、弟通廉は東久邇家の祖である。



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借金の利息

2008-02-16 17:28:16 | 歴史
 1/30付ブログで、「配流人から銀子五十貫拝借」を書いた。寛永十一年三月の事であった。藩が正式に、配流人・稲葉内記(正利)内に借り入れを申し込んだのは、その年の十一月、八ヶ月を経過しているのは何故なのか・・・?。

  一筆申入候然は内記様五拾巻目之御銀子此方ニ預置申候左候へハ
  此銀子唯被召置候儀ニ候間爰許何も借り申候上方之利足(ママ)並ニ借シ付可
  申候間被成其御心得候恐惶謹言
     十一月廿二日        西郡刑部少輔・判
                      浅山修理・判

 さてこの銀子、返されたのは寛永十五年九月十三日である。「稲葉内記様へ返弁仕銀子之目録」によると、利足(息)は「銀但壱ヶ月ニ壱貫目ニ付八匁五分」とある。
小さな計算が書き付けられ、最期に、「右五拾貫に年々之被加利足元利七拾三貫七百三拾四匁四分六厘七毛慥ニ受取相済申所如件」とあり、稲葉宗味・判 おち印とある。四年十ヶ月程の期間である。凄い金額に膨れ上がっている。

 別の文書によると、どうも内記方よりの催促があったように思われ「瀬戸五兵衛預り之御銀子を以相済シ」とあり、細川家の借金は自転車操業状態である。

 
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歯痛

2008-02-16 10:24:35 | 徒然
 去年の八月上旬、左上奥歯にかぶせていた冠が取れてしまった。別段痛みもないので放って来たのだが、ここニ三日ちくちくしていたのが今日になってすごく痛み出した。これは歯医者に行かなければならないか・・・(今日明日休みですよ・・)ここまで放っておいたのは前回の治療が原因である。口を大きく開くために金具を咥えさせられる。このお陰で私の上顎は一時期、かみ合わせが「コクン・コクン」と音がするようになった。これがトラウマになっているのだ。「80歳までは自前の歯で行けますよ」と言われたものだが、あの「大口開け」は二度と体験したくない・・・しかし「痛い」コーヒーも飲めやしない・・・
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熊本縣史料

2008-02-16 09:38:52 | 歴史
 熊本縣史料--近世編・第三を読んでいる。「部分(ブワケ)御舊記」45~66が収められているが、有馬陣における膨大な史料がここに登場している。侍帳に転記したい個人情報としての記事が、440~450ページほど有る。さてどうしたものかと、思案中である。
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第29回熊日出版文化賞

2008-02-16 08:18:52 | 熊本
 このサイトでもご紹介している、水野勝之氏・福田正秀氏共同研究・著の『加藤清正「妻子」の研究』が、熊日出版文化賞を受賞した。予備選の出版物を眺めながら、受賞は間違いないだろうと密かに思っていたが、正式な発表をみると喜びも一入である。福田氏は宮本武蔵の研究でも知られる在熊の歴史研究家だが、かって熊日マイブック出版賞を受賞されている。重ねての喜びである。一冊の本の完成へ至るまでのご苦労をお聞きしたが、只々その努力と精神力に驚かされる。「いっとき一休みですよ」と仰っていたが、どうやらムズムズされているらしい。次に何が出てくるのか大変興味深い。
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藩校時習館・・8 平面図

2008-02-15 23:23:12 | 歴史
 たった一枚のコピーを得るべく熊本市役所に走った。過日県立図書館に出かけた折、藩校時習館の平面図が展示されていた。コピーをしたいと思ったのだが、熊本市から提供を受けたものだと言うことで願いは叶わなかった。熊本市の「歴史文書資料室」にねらいを付けて電話を入れると、大当たり、ここでコピーをいただけるという。そして今日念願を果たした。熊本城を散策すると、二の丸公園の一角に時習館跡を示す表示がある。現在の監物台植物園前の道を進んだ処が、この図面が示す東門に当たるのだろう。城内駐車場のあたりに南門が見える。建築家の端くれたる私には、おおよそこの学舎の雰囲気が浮かんでくる。実は県立球磨工業高校の建築科の諸君が、この時習館の模型を制作中だとの話しを聞いた。どのようなものが出来るのか、楽しみだ。にらめっこしている平面図の上を、ちょん髷姿のお侍が動き回っているように思える。
 
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無告の民

2008-02-14 19:24:38 | 徒然
 TVの話である。一部しか見ていないから、前後の経緯はわからないのだが、かっての女性アイドル歌手MAが、「『無告の民を虐げず』って言葉があるでしょう」と言ったという。どうも話は、倖田來未の安易な「羊水発言」にお小言を言った上での事らしい。バッシングの嵐の中にある倖田を、『無告の民』として「そろそろ、お終いにしてあげたらどうですか」と、騒ぎすぎのメディアや、国民にやんわりお灸を据えている。・・「ご尤も」(ちなみにMAさんは、1953生まれ・第15回レコ大賞新人賞受賞)
「お馬鹿タレント」なる人種がTV画面を席巻する昨今、凄い発言だなーと感心してしまった。
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快感「三時間で一文字」

2008-02-14 08:43:55 | 徒然
 某家の先祖附を読んでいる。一度目で追い、その後Wordに打ち込みながら読み進める。これが私の流儀である。分からない文字は■として前に進む。区切りの良いとところで一休み、■の文字を改めて読みにかかる。文章の前後の関係を見て予想したり、文字の一部の「つくり」をIMEに打ち込んでそれらしい文字を見つけたり、崩し字辞典や「三體千字文」で探したり・・・昨日は「竊」という文字を見つけ出した。「ひそかに」という意味があって、前後の文章にぴったりと来る。文書に見える「ウ冠」と、右下の「禺」とも見えるつくりがヒントだった。三時間かけての成果である。古文書を読むというのは、「骨だなー」と想うのだが、「三時間で一文字」の苦労も快感になるのが何ともいえない。それでも■の数は少しも減らない。すらすらと読み解かれる人が羨ましくてしょうがない。

 最近、東大史料編纂所HPのデーターベース検索に、「電子くずし字辞典DB」という機能があることを発見、重宝している。例えば「道」という文字を検索すると、18通りの文字が表示される。プリントアウトすればいいのだが、これまた膨大な紙の山になりそうで躊躇している。
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きのう・きょう

2008-02-13 16:54:51 | 熊本
■昨日熊本城に「しゃち」が上がった。昨年「ひび」が発見され、調査中にクレーン車の揺れでこれを壊すという事故もあって、新しい「しゃち」に替える事になった。「しゃち」が下ろされた熊本城は大いに威厳を損ねていたが、これで「余は満足」。新に完成した「本丸御殿大広間」の公開(四月二十日)が待ち遠しい。

■毎日やってくるスズメの軍団の中に、最近「メジロ」が一羽交じっていると妻が言う。私はまだ見ていないのだが、本当かしらん。一握り多めに餌を撒いてみた。

■昨日の夜、風呂上りに「爪」を切りながら、知らぬ内に「爪を噛むのはよくないわ~」と口ずさんでいる自分に気が付いて、思わず赤面してしまった。「夜に爪を切るのはよくない」と祖母に言われて育った。「世を詰める--→寿命が短くなる」とか聞いた。子供が小さい時そんな話しをしたら、鼻で笑われた・・・

■隣の黒猫「宅急便」に盛りがついたらしく、「春の声」を上げては友達を追いまわしていて、うるさくてしょうがない。いつも息子の車の上で昼寝をして、追いまわされているのだが・・・

■我が屋の「ごえもん」の方は「骨皮筋衛門」になってしまった。食事も心臓を動かす為に食っているという感じ・・・ガンバレ誕生日が近いぞ(19歳)

■歩いて二分、お隣の100台ほどの駐車場を持つスーパーTが閉店するらしい。昨年オープンした激安生鮮食品店・Mの影響らしい。妻の友人が数軒もつスーパ・Mーのチェーンだが、その激安ぶりは「利益でるの」とこっちが心配するほどだ。しかし、隣のスーパー・Tが無くなるのも困ったもの・・・跡地は広いし、マンションでも立つのではないのか、心配。
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