津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

遠い親戚

2009-05-25 17:36:10 | 徒然
 インターネットを通じて、随分ご先祖探しのお手伝いをしてきた。しかし直接お目にかかった方は数少ない。処が「あなたはもしや●●さん?」という、お問い合わせで判明した親族が今迄二人あった。

 お一人は、父方の従兄弟の従兄弟にあたるMT氏だが、ご先祖様は田邊籠城衆という古いお家柄である。来熊の折お眼にかかり、長いお付き合いとなったし、こちらも熱くいろいろ研究を続けられており、いろいろご示教いただくありがたい仲間である。
 今一人は遠くスウェーデンからメールが入って驚いてしまったのだが、玄祖父・上田休兵衛の直系の玄孫である。数年前の帰国の折、わざわざ逢いに来ていただいて、休兵衛の足跡をたどったりした。お父上、叔父上とも連絡を取り合う間柄である。
 つい最近、懐かしい名前のメールが入りこれにも吃驚してしまった。母の従姉妹の孫にあたる人である。私は母方の祖母と三十数年起居をともにしてきたから、祖母の縁戚の方とのお付き合いが結構あった。よく出入りして居たH家の可愛い男の子が、そろそろ還暦だとおっしゃる。半世紀以上の時空を越えて、近々御目にかかることに成った。

 すべてご先祖様あってのことである。そしてWebの力にただただ感謝である。
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細川内膳家・家譜 その八

2009-05-25 10:55:36 | 徒然
      一、寛文三癸卯年九月十四日西園寺   http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺実晴
         左大臣実晴公之御臺徳子京都ニて
         御逝去其冬左府公之御二男御病
         気二手朝庭之御勤難被成此方御
         家ニたよりて御下向被成候刻
         瓊遥院殿 左府公御臺徳子之御事 之公達権中納言

         公満卿御舎弟三位中将御名公義   http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺公宣
         朝臣御下向ニ付随様ト御改被成候
         半左衛門様与八郎様之御甥子なり
         御本家様江御内々被仰入候處表向
         より被聞召候而者御会尺御六ヶ敷とて
         不被知召分ニ而被成御座候夫故直ニ
         御當家より御養育ニ而入道水村開

         地之内ニ邸宅を被構置御付ニ者
         高吉左衛門と云者被召仕後京都
         より女中被召下御安楽ニ御暮被成
         御女子壱人御出生お屋須姫ト云
      一、寛文御巳年従 綱利公御兄弟
         様今迄御不自由ニ可有御座迚先少
         分ニ被思召候得ども半左衛門様江玉名

         郡宮崎村西安村用木村郷原村
         山本郡中浦村合志郡弘生村高合而
         二千石是迄之御領知と合三千石
         与八郎様江ハ玉名郡之内山田村立願寺
         村下社家村合志郡入道水村柳水村御
         領村高合二千石是迄之御領知と合
         三千石被進候然共前々より有来候御
         心付ハ不相替被進候

      一、同年十一月二日半左衛門様江は千葉城江
         御屋敷被進候吉田茂左衛門より引渡二相成
         申候此方様よりハ御奉行渡部貞右衛門
         丹羽次郎左衛門請取に罷出候
      一、同年与八郎様江ハ古城江御屋敷被進候
      一、今迄ハ御本家之御士中江御会尺之
         儀御定も無之前々之大躰御様子ニ而
         相済候得とも熊本御住居ニ被為成候而ハ

         御会尺之御様子今迄之通ニ而も難済被
         思召御家老中江被仰談候処同年
         十二月御家老中より申来候趣御自分様
         方御事ハ御家中惣下馬ト被仰
         出候然共私共ハ御逢察仕候三家ハ
         行列を留メ駕ノ口を明御会尺を相待
         申候御自分様ニハ御通り懸ケ御駕の口を
         明ケ御会尺可被儀候役御家老ハ駕を居へ

         口を明ケ置御会尺を相待居申候間是又
         御通り懸御駕の口を明御会尺可被成候
         其以下ハ御下馬を請候間扣居申候間御駕
         より御下り被成候而御会尺可被成候御鉄炮
         頭以下ヘハ御下馬不被成候得共御自分様方ハ
         御友無之候御又通之儀是迄之御見合
         二而程能可被仰付儀と奉存候御家来
         中士被召仕候面々御家中江一統下座ニハ

         及間敷奉存候私共江ハ礼式有之節駕
         を居江及会尺申候右之趣ハ監物殿是長殿
         より通達有之候
      一、寛文六丙午年夏真光院殿御下り
         被成候藤懸四郎右衛門御迎ニ被差登御供
         仕候四郎右衛門子四郎助ニ従 与八郎様愛敬
         と名字を被下候依之愛敬四郎助ト相
         改申候

        

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細川家家臣・津田氏(三十郎家)

2009-05-25 09:42:45 | 歴史
 先年織田信長の子孫という、織田信成なるスケート選手が登場して巷間をにぎわした事が有る。織田一族は子福者が多く其の枝葉の詳細は窺い知れないのではないか。
細川家家臣・津田三十郎長相は、織田信長の弟・信包の子信重の男であるが、三十郎家の先祖附をみると信重も子供が多く、その仕官先に苦労している事が記されている。


        三渕晴員---+---藤英 
                |       
                +---細川藤孝(幽齋)
                |
                +---好重--重政--之直--+--之政==重澄・・・→細川家臣・三渕家
                | 
                | 土御門久脩            
                |       |-------泰重 (泰重卿記・編者)
                +--------女       ∥
                             +--● 
       織田信長・弟              |
           織田信包-----織田信重   |
                         ∥----+--津田三十郎長相・・・・・・→細川家臣・津田家
                   +-----●
       斯波管領家     |
           斯波義近---+---津川辰珍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家臣・津川家

 三十郎の生母は、斯波管領家義近の女である。故に三十郎にとって細川家家臣津川辰珍は伯父にあたる。織田氏の家系とはいえ、三十郎の家禄は300石であった。伯父・辰珍は、家禄1250石であったが、そのうちの700石をこの三十郎に分知している。これにより三十郎家は1000石となる。辰珍の養嗣子・辰房は分知後の家禄550石を相続、後に加増されて1400石となったが、不思議な話ではある。甥三十郎に対する、辰珍の愛情が感じられる。
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細川内膳家・家譜 その七

2009-05-24 15:00:36 | 歴史
     一、御兄弟様千石宛之御領知ニ而ハ熊本
        之御住居難被成御領地之内
        与八郎様ハ陳村半左衛門様ハ秋只村被
        成御在宅候
     一、半左衛門様御菩提寺を御定被成度
        思召与八郎様被仰合野中弥左衛門
  
        服部十郎兵衛ニ被仰付候へ共何レも下着
        早速之儀御當地之様子不案内ニて
        御請申上候迄ニ而押移候処何レ御府中
        御見物旁所々被成御巡■御心ニ叶候
        取柄之寺を御見立可被成とて折々熊
        本内御徘徊御見繕被成候折節従
        光尚公御兄弟様御菩提寺を早ク
        御極メ被成可然之旨被 仰出候切支丹

        宗門御吟味強ク御座候故御急キ被遊
        候由也 此段監物殿より御取次ニ而 仰出
        候二付 御兄弟様ニも早速其儀思召被
        付候間相應之寺を御見立被候旨被仰且
        是季殿御申候様ニハ脇ニ御見立被成る候ニハ
        及申間敷候 泰仰院殿之御名牌も御
        建可被成候二付御父母様之御霊屋も
        有之事ニ付泰勝寺ニ被成候御定

        可然旨 上々茂御内存ニ被遊御座候由
        御申候 御兄弟様御返答ニ■■■所
        次第奉存候併 泰仰院殿之事者
        兎も角もニ而候得共拙者共今の身分
        ニ而祖父宰相之御寺ト同様の儀憚
        多奉存候間此旨御聞置宜敷様頼
        存候何レ急ニ相極候様可致旨御返答ニ
        被成候右之通故猶々被成御急方々御

        御吟味被成候処坪井邊御廻覧被成候節
        徳輝山報恩寺ニ御立寄被成候処住
        持高林ト申僧罷出色々御物語被成候
        夫より御入魂ニ而其上道徳も有之
        僧故我等共其方之旦家と可成由御
        約束被成候此段監物殿江仰入候処
        御返答ニ報徳寺ハ御家中町屋混雑
        旦家ニ而御座候間格別之場所無之候如何

        敷奉存候御位牌所御廟所等之塁地
        可有御座哉御吟味之上右場所有之候ハゝ
        御極メ可被成候無之候ハゝ如何敷奉存候
        旨御申候二付野中弥左衛門へ被仰付吟味
        仕候処取柄つまり格別之場所無之候二付
        御決定難相成被押移候
     一、半左衛門様御在宅之邊り方ニ御遊■
        被成候処應永年開基之禅刹とて

        祥雲山瑞岩寺ト云古跡有之候を
        御見出被成候去々戌秋京都ニ而
        休無様御逝去被遊大徳寺之和尚
        御戒名を泰仰院殿前拾遺瑞岩宗然大居士
        と謚し奉申候連宗老処今年既二三回忌ニ
        被相當候二付き今度御入部之御領内ニ
        御法号之古跡有之事儀ニ不思議
        之御結縁なりとて急キ与八郎様

        御招請有之御互二実倡を被為感
        泰仰院殿之御位牌を安置させ■連
        徳輝山報恩寺之住僧高林を請つ連
        厚ク御追善被成候而高林を暫ク住持と
        御頼被成候
          右魚住波々伯部記之
     一、半左衛門様与八郎様御家来を今少
        被召抱度被思召候へ共御小知ニ而御心

        不被■候二付き山鹿を御仕立被成御家来
        被召置度旨御家老中江被仰連候処
        御勝手次第ニ被成候様ニとの事ニ付承應
        二年巳春より野中弥参右衛門江被仰付方々吟
        味仕候処玉名郡宮崎村之内一ヶ所鷲の巣
        と云合志郡入道村之内古閑原ト云
        右両所見立候而御山鹿ニ相成申候
     一、報恩寺之旦家と可被為成旨御約束

        被成候得共前記之趣ニ付其沙汰相止依之
        御見出被成候京都之瑞岩寺を御再興ニ
        相成先仮ニ茶庵を結ビ被為置候
     一、万治三年庚子年 於秋只村祥雲山
        瑞岩寺再興被仰付候此節仏殿庫
        裏門等相應二■■有之候右瑞岩寺
        京都妙心寺直末ニ而龍田山泰勝寺ニ
        そくし故高林報恩寺ニ皈り申候二付此

        節大久保■右衛門を旦那ニ被成御付候前ニ
        御約束■候故御名代ニ被成御付候



  
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PCトラブル

2009-05-23 18:14:00 | 徒然
          一昨日からおかしかった我が電脳機器が、ついに文字の入力が
          出来ないというトラブルに至り、終日修復に努め何とかコメントが
          出来るようには成りました。外にもトラブルがいろいろ有り完全修
          復には時間がかかりそうです。
          情報の発信は明日以降とさせていただきます。
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津田興庵という人 - 2

2009-05-22 19:22:02 | 歴史
津田小平次秀政は織田玄蕃允秀敏が子七右衞門秀重が子なり。織田信長に仕へ、滝川左近將監一に附屬せられ、上野國松枝城を預かる。浪人後、豐臣秀吉に仕ふ。次で川家康に從屬し、采地三千石を賜り、都合四千十石餘知行す。慶長末年大坂兩度陣に供奉す。元和二年致仕落髪して、京都に隱棲し與庵と號す。寛永十二年一月二十九日京都にて死す。齡九十歳、或は九十一歳。法名長興院殿光岩道景大居士。葬地京都妙心寺長興院。妻は滝川左近將監一が養女。與庵の長子平八郎、實は豐臣秀次家臣富田藏人佐高定が次子なり。諱一に正重に作る。慶長十一年七月二十八日養父に先立て死す。法名賜谷院殿岳宗規居士。妻山内修理亮康豐が女与禰、死別後稻葉佐渡守正成に再嫁す。與庵の次子七之助正吉、實は某氏が男なり。助九郎、或は小平次を稱す。號了甫。病身にて嗣子たらず。寛永十四年七月二十一日死す。法名宗實。其子七左衞門、津田平左衞門正方より長岡佐渡興長、長岡監物興季を頼み、細川越中守忠利へ召出され、寛文五年知行五百石を賜る。寛文八年四月死す。子孫代々細川家臣たり。與庵の三子津田平左衞門正方、實は豐臣家臣川北庄左衞門正勝號道甫が子にて十大夫或は平七郎を稱す。子孫代々川家臣たり。與庵の四子素信、實は津田平八郎が子なり。後に釋門に入て南溪を號す。妙心寺長興院四世の住たり。與庵の長女、實は津田平八郎が女なり。津田平左衞門正方に嫁す(寛政重修諸家譜、津田克己先祖附、妙心寺史、織田系圖、伊勢國司傳記)。

私は「興庵」と表記したが、「與庵=与庵」が本当らしい。
又、ぴえーるさんがブログに津田家の系図を掲載していただいて、御礼申上げたい。




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細川内膳家・家譜 その六

2009-05-21 08:15:21 | 歴史
 一、半左衛門様御鑓ハ黒熊茶せんの御鑓也
    是ハ幽齋様御道具ニ而一對之内一本ハ
    忠興公一本ハ興元公二分ケ御譲被遊候岐

    阜関ヶ原ニ而御鑓合御武功を被成御■
    候御鑓也
 一、三齋様より忠清公二御譲被遊候羅紗の婦■
    /\の御真鑓海月ト言是ハ太閤様
    千本御道具之内忠興公御拝領被成候を
    忠清公二御譲被成候夫より与八郎様御道具
    ニ御持せ被成候
 一、光尚公より右兄弟様江万事被為御心付
    御不自由ニ無之様被仰付候得共御領地無
    之候而ハ難済被 思召追々宜敷取御定
    可被進候深キ思召筋も被成り御座候由御
    内意有之先其内 休無様御遺言之旨
    被■一ヶ所■被進候間其旨可相心得由慶
    安元戊子年四月廿七日御奉行浅山修理
    亮以下ニ従光尚公御書被成下候依之半左衛門様
    江上益城郡之内秋只村浅井村高合千石
    御家来波々伯部権左衛門迄右修理之亮以下より

    連署を御引渡ニ相成与八郎様江者同郡
    陳村下横田村高合千石御家来魚住源右衛門
    間で引渡ニ相成申候判物有
 一、半左衛門様江ハ追々進而将軍家に御勤被成候様
    光尚公より御頼被遊候思召之旨御直ニ
    御内意有之候処御早世ニ而其儀無御座候
 一、半左衛門様与八郎様御花畑江御出被成候
    節相極居候下馬之所ニ而御下乗被成候
    処御門迄被為乗候様被仰出候二付御門前
    御塀之角際ニ而御下上被成候
 一、半左衛門様思召有之細川伊豆守と御改
    長岡半左衛門と称候訳ハ 三齋様寛永三年
    之冬休無様之北野之邸江被為入御中
    直之節坊丸様被成御出候様被 仰出候得
    共御気随(遣カ)ニ有之御延引故 三齋様
    御機嫌悪ク依之坊丸様ハ御一生御對

    面無之侍者丸様江御寵愛弥ク御嫡孫
    ニも被為成候二付与八郎様御成長ニ随ひ
    殊之外御後悔ニ而御心苦敷御様子故
    伊豆守様 半左衛門様御事御心外ニ被思召夫と無ニ
    休無様江御頼被成御嫡孫と従
    三齋様御意被成候事与ハ御座候得とも現
    在兄之上座可仕様も無御座候間諸事
    御次ニ被為附度旨被 仰上候処

    休無様江茂至極御尤ニ被思召
    三齋様江も其趣御内意被 仰上与八郎
    様御上座被成り候然処 休無様御遠行
    之後御國江被成御下候様中光尚公被
    仰進御下向ニ被■候得共与八郎様思召
    候ハ御下向之上御会尺等も如何■ニ可有
    御座候哉御壱人京都江被成御■度との
    御事故 伊豆守様思召ニハ御兄弟御下国

    被成候様ニと被為扣候処御一人ハ御■被成候而
    御本家様思召を被背■上ハ御難題之
    儀難済被思召候而先御逗留之御■
    様ニ被仰合御一同ニ御下被成候依之此砌
    長岡半左衛門与御改名有之与八郎様
    御一代ハ■■御内存之通御次ニ被為
    附候御様子故御安心被成り候此思召を
    与八郎様甚タ御感心被成御自分様之

    御後ハ御立不被成思召ニ而御出生等■
    不被成御座候様之御内存御極被遊候
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津田興庵という人

2009-05-20 18:26:06 | 歴史
 大日本近代史料・細川家史料の人物索引をながめていて、時折ひらめく事がある。今日のひらめきは津田興庵、人名索引は次のように解説している。

初正秀、小平次、興庵と称す、織田信長に仕え、滝川一益に属し、上野松枝城主。のち豊臣秀吉・徳川家康に仕う。慶長五、六年頃、四千十石余、奏者番。諸国の地図租税の員数改めに、関西三十三ヶ国を奉行す。元和二年、家康の没後剃髪して京都に退隠す。寛永十二年正月廿九日没。年九〇。

 細川家史料には、興庵が関係する書状が十数通残されている。徳川家と細川家の間をいろいろとりなしている事がわかる。津田氏といえば織田一族だろう。細川家にも津田氏が数家あり、ちょっとひらめくものがあって侍帳を開くと・・・あった。興庵の孫に当たる人(?)を初代とする、二つの家があった。先の人名索引に依ると、その出自がはっきりしないが、津田家侍帳によると、織田大和守般定(尾州岩倉城主)・・織田玄蕃(頭)・・七郎(七郎左衛門)・・小平太(興庵)と続いている事が判る。
織田玄蕃については http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/odahidetosi.html で説明がある。

これに元ずくと次のように成る。

  敏定---+---信定---信秀---信長
       |
       | 五男・玄蕃頭
       +---秀敏---七郎---興庵 

 敏定なる人物になると、真偽の程は判らない。
人物索引をながめていると、こんな事に出くわして幸せ気分である。
コメント (2)
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細川内膳家・家譜 その五

2009-05-20 08:21:34 | 歴史
一、正保三丙戌年春之末より休無様少々御
   不例ニ被成御座候 光尚公江戸より御下り之
   節被遊御上洛休無様之御館へ被為入候而

   ■ト御對顔伊豆守様与八郎様御同様左候而 
   魚住・波伯部・野中等被召出 休無様御
   老年之御事ニ付随分奉心を附候様被
   遊御意其外如例御目見被仰付候
   休無様伊豆守様与八郎様江も御土産被
   進候
一、同年七月 光尚公従 休無様御書
   被進候左之記

       為申置書進候覚
一、今度江戸より御上洛之刻■御尋殊色々
   給満足仕候事
一、還御目折節始御■相煩候而一日/\と悪敷
   候而爰元瞖者衆薬も何も相當不仕相果
   候躰無念存候
一、数年御合力之三千石内千石者西園寺
   殿江為之其外娘共孫ニ遣申度候西園寺殿

   所ニ遣置候我等手前不罷成候故可申候直
   儀も無之候条如此申入候二千石者与八郎
   伊豆両人ニ千石宛遣度候後々ハ伊豆
   其方頼入候間御呼寄候而扶持方迄心安
   御遣候而可給候其上之儀ハ伊豆心得次第
   ニ候右千石ハ我等在世之時給候思召御合
   力申給候■御同心ニハ満足可仕候煩極候
   間如是ニ候以上
    正保三年七月十七日  休無御判
       細川肥後守殿

     右返書左之通
   為御使被下魚住角兵衛七月十七日之
   御筆拝見仕候為合力数年致進上
   置候三千石之知行之儀ニ付被仰下候通
   奉得其意候委細角兵衛口上に可申上候已上
    八月二日       肥後守
       進上
        休無様
          参ル

   右御直筆之御返事被進候魚住角兵衛
   午前ニ被召出御直答之趣為之左候而
   角兵衛御紋付御帷子被為拝領候

一、同年八月朔日 休無様御遠行御壽(命 欠カ)
   六十七歳葬洛外大徳寺内高桐院御
   法号(記載なし)

一、休無様御遠行之段 伊豆守様与八郎様
   より 光尚公江御書中ニ而被仰上御返事
   御直筆御兄弟様ニ御名字御書話
   様文字ニ而御座候
一、光尚公より 伊豆守様与八郎様江費仰遣候ハ
   御間柄実ニ作事なく被思召候京都
   御住居ニ而は諸事御疎遠ニ被思食候間
   熊本江御下被成候様ニと被仰進候商法五

   戌子年二月慶安と改元有此春為御迎
   田中又助此時御鉄炮三十挺頭之由其外彼是被差登
   候依之 御兄弟様先御逗留之思召ニ而
   右之御礼旁熊本江御下着此節思召有
   之細川伊豆守様を御改有而長岡半左衛門
   忠清公と御改名其後又忠春公と被成御改
   候 光尚公不斜被遊御満悦被為御心
   附諸事御不自由ニ無之様ニと賓之礼

   を被為尽万端御馳走有之此節も先御
   逗留之思召故御母公真光院殿者御下り不
   被成候依之御道具等も都而京都江御残し
   被置常躰御入用之所迄ニ而御下被成候御
   兄弟御下り候得ハ西園寺家より段々御世話
   有之候
  
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「男を止め」について

2009-05-19 21:47:55 | 歴史
 昨日のブログで細川休無(忠隆)のことを書いた。埼玉在住のTKさまから、次のようなコメントをメールで頂戴した。適宜なご教示に感謝申上げると共に、当ブログでご紹介することへのご了解いただき、ここに全文を開示する。


 又々、加藤嘉明家牢人の話ですが、
加藤嘉明の甥河村權七の母方の叔父に犬塚左衞門という侍がおり、後に岡部大學を名乗り、関ヶ原合戦の後加藤家を牢人、慶長末年大坂城に籠って大野主馬首治房手の物頭となり、騎馬五十〔但し不調四十五騎〕を預かりました。慶長二十年四月二十九日泉州樫井合戦で古朋輩の塙團右衞門と先手を争い、競進して寡兵のまま淺野長晟勢と衝突。八町畷を直進して樫井の街に突入した塙團右衞門は戦死、迂回して樫井川の河原より突入した岡部大學は手傷を負って退きました。
 大坂城に引揚げてからのことです。先手を争った挙句に古朋輩の塙團右衞門を捨て殺しにした形となり、岡部大學は悄然として毛利豐前守吉政を頼み罪に服することを申し出ますが、豐臣秀頼からも慰撫されます。

『大學は切拔て歸城して森豐前守に申けるは、團右衞門討死は畢竟拙者が先駈仕候故にて候、拙者も戰塲にて討死可仕候へとも、此段をも可申上、大軍を切拔罷歸候、早々被仰上可被下と申す、豐前守、扨々左樣にて候や、團右衞門討死を明白に御申之段致感心候、左樣に實ある貴殿を申上切腹爲致候事、何とも難忍候へは、是は聞捨に可致候、我等不聞分に被致可然と申す、大學申候は、扨々貴公は番頭にも御似合不被成候、理非の二ツは格別にて候、御取上無之候はゝ、直に大野修理へ斷り上聞に達し、御仕置可罷成と申故、無是非秀頼公へ申上けれは、團右衞門討死、誠無是非、今に至て大學を罪に可申付樣も無之と被仰渡けると也』(古老噺)

 大野治房も岡部大學を処罰しなかったことから、同じ大野組の長岡監物是季をはじめ他の物頭達はすっかりしらけてしまいます。

『主馬組二萬の勢、其物主皆主馬に不和なり、其子細は樫井にて塙團右衞門を岡部大學仕方あしく討死させ、味方の大利を失ひ、尤其身も樫井にて自身太刀打粉骨を仕たれとも、其場を退來り、米田監物、御宿越前、上條又八ニ安松にて逢候時、團右衞門を捨殺し、男ハさせぬと惡口せしに、返答もなかりし臆病者を組に御置候事無用と訴る、主馬、尤なれとも今人持物頭を追放する事いな者なれハ、御利運の上の事に可致と云を皆々無興して、左候ハヽ我々御組を離し候とて、長岡監物、上條又八二組、并團右衞門か組もみなみな立退、物頭ともゝ主馬にハ不和なり』(大坂御陣覺書)

 結局、岡部大學は翌五月七日最後の合戦も切り抜け、愧世庵と号して何処かに隠遁しました。

『大坂已後男を止メ、入道して愧世庵と名付隱遁して居す、大坂表の事を世人か問へは、我は無隱男ならぬ首尾ゆへ入道仕候間、合戰の樣子曾て不存との返答せしとなり』(大坂御陣覺書)

「男ハさせぬ」・「男を止メ」・「男ならぬ」とは、丈夫と見做さない、世間に対して武士(侍)として顔向けできないといったニュアンスがあるように思えます。もっとも、然るべき古語辞典や日葡辞典にキチンとした定義がありそうな気がいたします。
大坂落去後、生き延びたことを恥じて岡部大學の場合と同様に大坂での事を終生語らなかった侍がいます。眞田左衞門佐信繁手に軍奉行として付属された伊木七郎右衞門常紀です。伊木七郎右衞門も慶長二十年五月七日の合戦で敗軍の混乱の中討死せず、落去して大和龍田、丹後宮津で養老の資を宛行われました。「男を止メ」を超えて自分の事を「犬同意」と思いつめていたようです。山本博文先生の高著に「武士と世間」がございますが、自身の生き様を世間の目と対照してどうあるべきか、当時の武士の心持の一旦を窺わせる事例かと存じます。

『同七日天王寺表茶臼山前後眞田と一處ニ働申候處、敗北の同勢ニ押隔られ城中へ歸入不申、落武者に罷成候、此節死不申事一生の恥辱、犬同意と存、昔語も恥ヶ敷候と申、老後終に子共ともに語不申候』(舊典類聚所収諸家由緒)
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細川内膳家・家譜 その四

2009-05-19 08:37:27 | 歴史
     寛永九壬申年 忠利公肥後国御
     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候
     処其後猶又被仰進候ハ御老年ニ被為成
     候ニ付甚タ御作事なく被思召上候ニ付暫
     御逗留ニ被成御下候様ニと被仰進候ニ付
     寛永十九年壬午年秋八月 休無様八代へ
     為 御見舞被成御下向候同冬二至り御帰京
     可被成由御暇被仰上候処 三齋様御意ニ
     直ニ爰元江被滞候へ左候ハゝ此前追々被仰

   
     進候通御料地等をも被進御子方も御下り
     候様ニ可被成旨被仰せ候処 休無様御更ニ
     思召之旨誠ニ忝奉存候へ共私男を止メ
     候
へ共曽而両地頭主ニ無御座候間御断申上
     度奉存候ト被仰上候処重而御意ニ其
     方存知候者去年な連ども両人之男子
     之為ニ候へ共是■其通ニ被致候へと被仰候
     ニ付忰共事迄被 思召 御懇意候段
     重■ニ取奉存候二付御更申上候筈ニ

     御座候得ども忰共迚も御本家之地を賛候儀於
     私心外ニ奉存候本家ニ奉公仕候身分之者ハ
     忠勤次第後栄の■め如何様之大禄之儀
     可被下儀ニ御座候へども於私共■■難仕奉存候先
     事段 将軍家も可被召出旨蒙御内意
     候得とも 此御内意本多佐渡守正信御取次有之由 男ヲ止メ候上者強而
     御断申上候子共儀ハ私没後従本家悪クハ
     致申間敷候私存生之間ハ只々今之通ニ而
     心安ク天年を終り申度奉存候間於此事

     ハ蒙御免度奉願候被仰上候 三齋様
     御意ニ于今始メ其方之気性なりとて
     御感賞被成為御餞別守家之御腰物
     被進候 守家御腰物ハ三齋様依御武功従秀忠公御拝領被成候を此節被進候 右之御腰物ハ
     休無様御歿後為遺物 光尚公江被差上
     候右之通御断被仰上御帰京被成候御離盃
     之節者御能被仰付候此節休無様者源
     氏供養を被遊候休無様御往来熊本ハ不

     被遊御通候御供之役頭ハ野中弥三右衛門被召連
     候 三齋様御目見被 仰付其方ハ熊本二罷出
     家老中江見廻候様被 仰付往々迚も御家
     老之儀麁略ニ不存訊向仕候様ニと被遊
     御意候其外士中御目見被仰付候


    archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=守家の太刀
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男を止メ候

2009-05-18 18:36:30 | 歴史
 「細川忠雄家譜」を読むと、他の史料では伺い得ない記述が見られ驚かされる。寛永十九年休無忠隆は初めて、八代に三齋を訪ねている。綿考輯録には誠に簡略に「八月、休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京之時ニ三齋君より守家之御腰物被進候」とし、この刀の由緒、その後の行方などが記されている。

 この数ヶ月に及ぶ、三齋と休無の久闊をあたためる毎日は、どのようなものであったろうかと常々想っていたのだが、是こそ三齋の心情を窺い知る事のできる濃密な日が送られていることを知ることが出来る。    この事を次回の「細川内膳家家譜-その四」でご紹介する。
 休無の来訪は、三齋のたっての願いであった事がわかる。そして其の目的は、八代領六万石の継承問題である。休無に是非とも継がせたいという、三齋の強い想いが家譜の記述に伺える。しかしながら休無はこれを断るのである。再三の説得が行われるが、休無の心は動かない。休無は「男を止メ候」者であると云う。これはどういう意味であろうか。この前か跡かは定かではないが、休無の徳川家直臣としての召出しの話が、本多正信を介して進められていたらしい。これについても同様理由で断っている。休無はまさしく「無」の世界に生きている。これにより八代領の継承問題は、立允(細川立孝)へと傾いていくのである。休無が帰京してすぐ、証人として江戸ニあった立允が八代に帰るのである。私たちは忠隆(休無)を「運のない人」と見てこなかっただろうか。休無の心は崇高な世界に生き、満足の一生を終えたのであろう。
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細川内膳家・家譜 その三

2009-05-18 08:28:28 | 歴史
    一、三齋様御意ニ休無若キ時ハ加■成
      生レ付成者が今ハ能も者な連きりて
      見事成ル取置なり心付し事有連ど
      言出して却而請も如何と恥入処有せめ
      てさきの事ゆへ我等秘蔵の物二而も可遣ト
      被仰候利休が有馬ニ湯治ニ参り見出し
      与請て二ツと無キ釜とて秘蔵せし阿

      弥陀堂ト言釜 三齋様御所望ニ而御手ニ
      入天下無類の名器なりしを 休無様へ
      被進候是ハ余リニ所奉存由御礼被仰上候
      得共 三齋様御■口ニて■ちのよふな
      数寄者ニ遣るハ阿弥陀を地獄ニ落そ
      かしやと被遊御笑候此御釜
      真源院様江 休無様より被進候 
    一、休無様江御本家様より諸事被為御念
      
      入候御事なり其時分之御書三(二カ)通
                 左ニ記
       十一月廿六日之御書致拝見候
    一、如御意 上様早々御本復目出度儀と
      申事ニ御座候我等儀能時分罷下大慶
      奉存候事
    一、御無事ニ御座候由弥重奉存候我等も
      六も無事ニ罷在候事
    一、御知行之米上着仕候由被為入御念候
      御書之旨奉参存候爰元相替儀も無御座候
      此旨宜有披露候恐々謹言
                  越中
        十二月十三日   忠利御判
            魚住与助殿

      江戸就参勤仕罷上候間御使者
      申上候仍 御太刀一腰御馬壱疋
      代黄金拾両致進■候此旨可有披
      露候恐々謹言
                肥後守
        四月二日     光尚御判
            魚住与助殿

    一、休無様より 御本家様御家老衆江
      被下御書二通記之

      従越中守的場甚四郎江被差越
      家等中務ニも小袖彼(被カ)送候に詠之知申候
      其件よりも早々給満足申候此表無
      異儀候可被心安候家内何レもへ心得
      可申候猶甚四郎へ申聞候恐々謹言
        十月廿五日    休無
                     御判
           長岡監物殿
                  参
      尚/\同列へも心得頼入候以上


         尚/\栄鷹一段見事なる鷹ニて
         則志ゝ計當頓而取■■可申■存候以上
      先度召使宜以出状申候■取之巣
      鶴之儀無心申候処給候則肥後守より
      居候被上候無事ニ有着仕て満足申候
      中務よろこび申候貴殿へ能礼を可申由
      此中眼中煩申候ニ付以書状不申候相心得
      可申旨候其元何レも無事候哉と存候
      雲仙■(尼カ)へも一傳申度候近々可申達候
      恐々謹言        休無
        十一月廿五日     御判
           長岡監物殿
                返報

      右之御書ハ監物殿家来阿野文右衛門与
      申者取持致居候を左用角左衛門へ見セ申候
      休無様御直筆故両通之内壱通を
      請差出候ニ付此方江有り

          なんとも歯がゆい事ながら、読めない字が沢山あります。
             一日中睨みつけていたのですが、此のありさまです。
             次に進むために見切り発車と相成りました。お許しを・・・
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谷田部藩家臣の扶持放し

2009-05-17 10:06:54 | 歴史
■寛永十五年十一月十九日忠利書状(細川家史料-1248-)に、次のような一行がある。

       「(略)岡彦兵衛叓病死仕候由、無是非儀候事」

 この彦兵衛について、細川家史料-人物索引は「細川家臣。岡平兵衛男。父子ともに藤孝に召出さる。藤孝二男興元の部屋附となる。興元、下野茂木一万石拝領の時、そのうち千石を知行す。其後故ありて興元のもとを辞去す。其後忠利より召抱えの申出あるも謝絶。寛永十五年病死。」と記している。10,000石の内の1,000石を拝領していたというのだから、余程の人物であったのだろう。「故ありて」とは果たして何であったのか・・一寸気に成る。息であろうと思われる人が、肥後細川藩に召し出されている。「侍帳」に同名の岡家がある。(400石)

■寛永十七年九月十一日付忠利書状(細川家史料-1386-)
 
  玄番(玄蕃・細川興昌)ニい(居)申候藤兵へ事、ふちをはなし被申候よし、かまい
  候て、たへ物遣、我々下候まて何方へもまいらぬ様ニ才覚、主馬ニ可被申付候、
  おしキさむらいにて候、後々ハ玄番ニもらい候事もなり可申候事、いかにもさたなしに
  可被仕候事

 谷田部藩を扶持放しになった藤兵衛なる侍を、細川藩で「こっそりかくまえ」という指示である。先の話といい、この話といい、谷田部藩は優秀な人材を手放しているようだ。
この藤兵衛のその後ははっきりしない。いつか見つけ出すために、しっかり頭の中に記憶させた。
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熊本藩役職者一覧 ・ 人名索引

2009-05-16 16:43:57 | 書籍・読書
 「熊本藩役職者一覧」という本がある。細川藩政史研究会から発行された、西山禎一氏(都城高専教授)の御労作である。私共もこの本には随分お世話になった。残念な事に人物索引がないから、特定の人の情報を得る為には大変苦労するという状況があった。

 今般、芦屋市在住のMT氏がなんとこの人名索引を作られた。「熊本藩役職者一覧 ・ 人名索引」である。A4版79頁に及ぶ本格的なものである。西山禎一氏の「熊本藩役職者一覧」の掲載頁が連記され、「細川家家臣略系譜」(川口恭子氏編)、「細川藩侍帳集成」「肥後細川藩侍帳一~四」(松本寿三郎氏編)、肥後細川家分限帳」(高野和人氏編」、「肥後讀史総覧」に連動している。すばらしい御労作で掲載されている人の数は、4,500~4,600人に及んでいる。ただただご努力に感謝申上げる次第である。

 いろいろ情報を提供してきた某家の、私がまだ確認できていないものがあることが、この貴重な資料で早速確認する事が出来た。すごい物が出来た。
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