津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

北関始末實記・・その10

2009-11-19 08:17:40 | 歴史
 源七ハ無程北ノ関ニ着藤田か旅宿を尋候而案内を申候得ハ取次之

 小姓壱人罷出御口上承らんと申又右之方ノ戸口より傍成者大脇差
 を差たるか近々と立出候て見て居候源七是ハ何分く勢者と存候
 無油断目を賦り口上を申す口上に者/前川勘右衛門申入候ハ只今
 是迄罷越候可申段惣老御出合候へ互に飛道具ハ相止メ鑓合にて可
 申談候為其使を以申入候/と申早速藤田返答に/是迄御出候由ニ而
 御口上致承知候早速罷出可申談候/と申源七即立帰る十左衛門者
 先き弥助か中途より帰りける意味を聞/源七壱人ニ而ハ無心
 元早速可被討五十里喜兵衛早々罷越源七切合候を見懸候候て
 夫に不構早々立帰り可申達/と申付差遣喜兵衛急参候に源
 七ハ使を仕舞帰候に彼切通しにて行逢打連て帰ける
 此時藤田か遠見走り帰り前川ハ上下弐拾人斗りと相見へ鑓弐
 本にて参ると申藤田聞て/何としてか勘右衛門か弐拾人にて
 可参鑓弐本も合点ゆかす道通りの者を見違たるらんと云乍

 去もはや近く成るらん立出て仕舞ハんと若黨五人小者三
 人にて立出る所に彼遠見者申候ハ/合点参らぬ事御座候ハ
 慥に鑓ハ弐本見へ申候是ハもし山名十左衛門殿なとかせ被に被参
 候にて無之候哉先程是に参候者ハ見知不申候得とも跡より又々
 使と見へて参たる者切通しのあたりにて最前の使に逢
 候而何やらん申談打連て帰候者ハ十左衛門殿之家頼五十里喜兵衛
 と申者私能く見知りたる者にて御座候慥二喜兵衛と見懸申候
 然者山名殿被参候故鑓弐本と見へ申候其上勘右衛門ニ而弐拾
 人程の供は有間敷候山名殿もともにと存候/由申候へハ其時助之進
 案に相違して/十左衛門か来るハ扨々思寄なき事/と大声にて
 のゝ志る縫殿之進是を最後と存候躰にて父に申候ハ/私儀ハ只今
 元服仕御供可仕候御供にて討死仕候に丸顔にてハ残念に存候
 男に成り安堵仕討死可仕/と申はさみにて前髪をはさミ切り振

 袖を取て口にくわへ脇差を抜て袖下を切捨たる小袖口
 ひら/\として手にさハりたれ共母に向ひ/只今是を急に
 御縫被成被下候へ/といふ母聞て/只今急にぬきかえよ着なから
 衣服を縫は忌むことなり門出にいかゝ/と云ふ縫殿之進申候ハ/
 いそかしき時節ぬき替るに不及只々此まゝにて御縫可被下候忌
 む事と被仰候へともそ連ハ平生の事亡者の経帷子を着な
 からぬふ物と承り候へは於私者死出の衣服の経帷子にて却而
 大慶に存候/といふ母なミたなからにこ連をぬふ縫殿之進ハ
 高笑して/元服仕男になりすまし母之御縫物の経帷子を
 着仕父の御供仕討死仕候太悦之至り是に過不申目出たし
 目出度し/とから/\と笑ひて罷立候急ニ立出て村はつれ
 より見れ者勘右衛門十左衛門はや件の切通しを打過き候而下ノ小川
 之はたに参る助之進ハ此切通しを又々取かためんと参りけれ共

 はや敵にこされすへきよふ鳴く左の方南ノ山際の段々畑に上り
 小川を見おろし壱匁玉之鉄炮各弐ツ玉を込メて膝台にかけ
 て控たり山名前川ハ切通しノ下小川のあなたより見れ者足場の悪
 敷段々畑に敵ハ打敷て控たれ者無理にかゝらん事城攻より者
 六つヶ敷千に一つも利あるましと見切て使を立ておひき出さんと
 する処に藤田方より使を立/是迄御出残暑の中御苦労ニ存候
 殊に十左衛門殿迄御加勢に御出と見懸我等為にハ面目ニて候
 早々是へ御越候へ可申談/と云を勘右衛門返答に/只今是より使差
 立候筈之処ニ御返事に罷出候夫へ可参候得とも此方か足場よく互
 に致能候間是へ御出候へ/と申遣藤田聞て/此方ニ恐れて寄り
 付すに夫より直に帰るかもはや帰レハとて帰すましきそ/と
 あさわらつて鉄炮の火繕りして扣居處に十左衛門より使を立
 て/此方へ被出候へ最前も申候通飛道具無用に候由申入候処に其

 處に其方は鉄炮相見えたり惣して飛道具ハ大敵を防く道具也
 然るに如此数丁之鉄炮ハ非強之仕方難心得候但し飛道具なし
 にハ此方に手向ひハ成申間敷と存候此方ハ飛道具なしに
 可参候其方どもの有様にてハ飛道具なしにハなられ間敷候/と
 申遣しけれ葉藤田父子大ニ立腹して/物をいはするな一々ニ
 打殺して捨てよ/とよ者ハつて段畑を飛おり小川の波をけ
 たてゝ討て懸る此時は廿三日申ノ中刻也 
 
             只今進捗率約55%、次回はいよいよ直接対決です。
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北関始末實記・・その9

2009-11-18 12:32:44 | 歴史
 源七ハ又夫より少シ行て粟之草取ル農人之居
 たるにとへ者/此邊ハ北ノ関の内にて御座候/と申源七向て云/肥後之
 士の被居候ハ何方そ不知や/農人立上つて指をさしあ連に見へ
 たる在所か北ノ関村にて候今少以前に肥後之衆鑓弐本
 為持上下拾人斗り二而此下道を通り御入候/と申源七見渡せ者其所
 よりハ拾町斗り少シ内と見ゆるそれよりすゝミゆけハ少シ高ミ有て
 有幅五尺程の切通しの急成る小坂有り此切通しを過行け者
 又少し爪さき下りの下り坂有て下ニ三間程の小川有源七此川にて
 水を飲気を繕い刀腰差の柄に水をかけ目釘を志めしてすゝミ

 行に段々畑の上に見物の者と見へて大勢いたりしか口々に/扨々
 大事成所を捨られたり/と声々にいふ音聞ゆる此切通し屈今竟の
 場所なるに先刻は此切通しに藤田待居たると見へて四五寸廻りの
 青竹を結ひ渡し鉄炮をもたせたるかと見ゆる跡有火縄の灰も
 少々落て有源七立留りて見廻すに誠に此所に如此鉄炮にて
 待居たるに行かゝら者帰り打に討連て残るもの有間敷に此所
 を引たるハ味方之運の強さよ討勝ん事必定なりと独言して趣
 けるげにも源七か積りの如く今少し以前迄ハ藤田此所をかため
 不仕上下拾人にて待居たりしか先刻ニ度目に遣候使帰りて
 返事を出し口上を申候を藤田委細に使之者に尋けるに使申候
 ハ/高橋村前川殿宅ニ者何そ拵候躰も見へ不申殊之外物静ニ御座候
 取次ニ出し小姓も粗服中常躰ニて頓て打立申候躰にハ聊見へ不
 不(ママ)申候人少ニ御座候と見へて物音も無之候/と申扨ハ前川の不覚者

 返事にハ頓て是へ可参とハ云越しけれとも必定よも是まてハ
 来るまし返書にたまされて爰にうか/\と待居て日を暮して
 も詮なしもはや引取て直に小倉へ打立へしと小者壱人
 宿の町へ人馬を屋とひに差出し又小者壱人ハ早々北ノ関村へ旅宿
 江遣夕飯の認を急き拵よと云て先江返し諸道具取認め
 北ノ関へ引取らんとする所に嫡子縫殿之進父に申候ハ/またも
 油断ハ成かたく候今少しハ此場所に御見合可然候/と申助之進
 申候者/何としてか勘右衛門の腰ぬけめ是なて可参候哉去年以来
 の取遣にてきやつめか臆病の程ハ其方も知りたる通りなり
 それにつら連此所み隙を取ても此方の不覚なり早々打立て/と
 いふ縫殿之進又申候ハ/父上御意違背恐入候得共能々思案候に
 此存付申候ハ楠殿軍法ニ獅子か狐を取候節も虎を取身構を
 して懸るハ小敵とてあ那とらん軍理也小敵を阿なとる葉必負な

 りと楠殿の仰られしと承候今前川こときの弱者之小敵
 ハ私壱人にても討候事案の内にて候得共爰ハ小敵を阿なとらす
 して志つかりと御仕廻被成候て軍理に叶可申/といふ助之進申候
 ハ/年にもたらすして子細らしき事共を申すな夫程の
 事を五十に近き父の知るましきか只今引き来れ/といふ縫
 殿之進又申候ハ/度々御言葉を返すハ恐入候得共私者まだ落
 付不申候臆病にて申上候ニ而無御座候勝負に念を入始終無残所
 御仕廻被成候へかしと奉存候て申上候事ニ而候任御意御供仕引取可申候
 併小姓壱人ハ此邊に遠見に御残し被置候得かし/と申助之進聞て
 /是ハ縫殿か申候通り可仕/とて若黨壱人申付若勘右衛門か参る躰
 を見懸候ハゝ早々立帰り知らせ候得と申付藤田父子上下共ニ北ノ関江
 引取也此時父子か問答之趣藤田か小者生捕之者申たるにて知レ申候

                         ようやく半分のところです。

 
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未解決のこと

2009-11-18 10:32:42 | 歴史
 三好三人衆の一人に岩成友通なる人物がいる。

 【岩成討ち果たされ候事】
 さる程に、公方様より仰せ付けられ、淀の城に、岩成主税頭、番頭大炊守、諏訪飛騨守両三人楯籠り候。羽柴筑前守秀吉、調略を以て、番頭大炊、諏訪飛騨両人を引き付け、御忠節仕るべき旨、御請け申す。然る間、永(長)岡兵部大輔に仰せ付けられ、淀へ手遣いひ候ところ、岩成主税頭、城中を懸け出で候。則ち、両人として、たて出だし候。 切ってまはり候を、永(長)岡兵部大輔臣下、下津権内と申す者、組討ちに頸を取り、高島へ持参候て、頸を御目に懸け、高名比類なきの旨、御感なされ、忝くも、めされたる御道服を下され、面目の至り、冥加の次第なり。

 細川家家臣下津権内の高名で有名な話しであるが、この岩成主税頭友通に名前がよく似た人物がいる。細川家家臣宮村氏の先祖に、岩成主税亮吉通という人が在りこの人がどういう人なのか判らないでいる。
膨大な記録文書を残した宮村典太のご先祖様である。
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細川家家臣・磯野氏

2009-11-18 08:18:37 | 歴史
                             丸に六曜紋

家祖は磯野主馬である。宝蔵院流槍術を、創始の胤栄・二代目胤舜に学び勝れたる弟子六人の一人(六天狗)に名が上げられている。

  宝蔵院流槍術・系統図
  磯野主馬信元--+--稲津次郎兵衛--門司源兵衛直復--同・源兵衛直方--直定
             │
             +--磯野弥兵衛氏政-+-磯野弥兵衛氏実
                           │
                           +--磯野伝蔵
                           │
                           +--加来平右衛門

 磯野主馬は九州に於いて宝蔵院流槍術を広める事につくした。
一時期細川家の禄をはんだが後細川家を離れた。二代目磯野弥兵衛が召し出され、槍の名家として明治に至った。
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北関始末實記・・その8

2009-11-17 14:07:26 | 歴史
 此時惣庄屋山鹿安右衛門并に勘右衛門か元知行和仁十町板楠
 村之百姓共頭立候者共は皆代償を指し其外之者共ハ脇さし斗に
 鑓・鉈・長刀等を持て両家の百姓百余人弁當なか者に土烟を踏
 立おびただしく見へてかけくる十左衛門立上り對面して/いつ連もこれ
 まて参り候事神妙なり心さしの段ハ満足仕極せり勘右衛門我等
 存寄有之故場所へ参り候事ハ堅く無用也萬々おして参るもの
 あら者此事済て後指通すまし若我等討れたり共草の陰
 よ里恨みたゝるへし其子細ハ藤田こときの小敵に十左衛門助太
 刀するてさへ少しおとなけ那し其上ニ知行之百姓迄かり催し
 参り候と阿れ者討勝ても此方のにけになる若真実之心入
 なら者遠方より後巻して有ならは重畳神妙におもふ
 へし若又我等共討負たら者勘右衛門と我等か死骸を取帰り
 高橋村ニ堀埋むへし/と高らかに被申けれ者百姓共平伏して
 畏る惣庄屋山鹿安右衛門ハ其辺二ハ近付かて少し間を置扣へて

 居けるに十左衛門使を遣し/只今百姓共へ申渡候段被聞候にて可有
 之候其方者役儀たけに百姓共召連帰りて給はるへし/と有
 けれハ安右衛門/得其意存候御後詰を仕自然之事も候ハゝ敵を
 御手ニハ餘し申間敷/と申引帰と見へしか北ノ関の上の山へ廻り
 松の木の志けりたる中に伏し隠れ様子を見居たり十左衛門ハ
 夫より日遅に成てハいかゝ也急けや者どもとて馳て行吉田又兵衛に
 十左衛門申申けるハ/又兵衛ハ古右馬助殿へ供仕有馬陣ニも参り血
 くさき目に逢て男役は相済たり其上老人なれ者場所へ
 参候事無用なり/と申付る又兵衛申候ハ/これハ御意とも不被存候
 血くさき目ニ逢男役を勤候事一代ニ何か度とかきりたる儀
 とハ不承及候必一度に限りたるにてハ有御座間敷逢おう老且又老人
 とて主君の御大切の場所ニ不罷出と申儀武門ニ者曽而有
 間敷事ニ候只今の御意ハ乍恐奉違背候/とてすゝミゆき

 扨其外のもの共ニ/もはや場所近つきたり是より帰りたくお
 もふものハ罷帰へしかつて申分なし/と下知すれ共誰有て
 請をするものなし各/\口/\ニ/主君の仰に請返事を申事も
 阿里又申さ奴事も有ものハ今の御意ニ者御請ハ申さぬ事そ/と
 口々に申てすゝみ行十左衛門ハ馬を早めて/北の関ハいつくなるそ
 もはや近付たるらん文右衛門/\とよひたれとも文右衛門ハ不達者
 にてはるかにおくれけるか走り付て/北ノ関はまだ程遠く候/
 と申其外さきに方々のけんふつのものにてあらんと見へて段々
 畑之上に大勢見へたりしか者いつ連も者や北の関ハ近くな
 里たると覚ゆるそ文右衛門と呼けれとも文右衛門又々おくれ
 て追つかす十左衛門のいわく/文右衛門居すんば源七北ノ関江打向て
 勘右衛門是まて来り候と申せ/と下知す源七畏て先に走り
 奴けてすゝみ行跡より一ノ宮弥助も差添る源七ハ道のほとり

 に粟の草とつて居る農人ともに立向ひ/北ノ関ハとこの程/とそ尋
 けるに農人共申ハ/北ノ関ハまだ間御座候/と申源七又云ク/あ連に
 菅笠着たるものあまた見ゆるハ何ものそ/と尋ぬる農人とも
 いわく/あれ者見ぶつに出たる此近所のもの共にて候/と申源七
 /それハ何の見物そ/と尋るに農人とも申候ハ/其元様ハ未タ
 御聞不被成や今日肥後之御侍衆此辺にて討果たされ候よしの
 筈其見物に出しものにて候/と申源七ハ弥七に向ひ/いつ連場所ハ
 近くなりたる見へ申候貴殿は是より帰りて可申上ハ最早北ノ関も
 近く成たると見へ申候静かに御出被成候へと可申上/と云含む弥助
 申候ハ/夫ハ何之為候事そ貴殿と拙者両人ニ比申付たるハ御使我等
 道より帰り貴殿壱人可遣道理なし/と申源七申候ハ/平ニ御帰候へあれ
 へ者壱人参ても弐人参ても同事也弐人参ても其場にてハ返し
 申間敷候定而討と免可申候両人共に彼地にて犬死しても口惜く

 貴殿ハ帰り候て追付打合の御供せられ可然候弐任なから只今討
 連てハ殿の大損なり/と申弥助申候ハ/申分も有之候得共貴殿拙者
 是にて申あいたるにてハ埒明す所詮主君之損得之勘弁する
 場所なりさあら者貴殿斗り被参候へ拙者罷帰り■而御用に
 立可申候/と立帰る
                       只今進捗率40数%ほどです
 
 
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細川家家臣・村上氏(景廣流)

2009-11-17 09:42:59 | 歴史
村上景廣とは、大日本近世史料--細川家史料の索引を引用すると次のように有る。
【小輔五郎、弾正、八郎左衛門。小早川隆景に仕え、父隆重の遺跡を継ぎ八千貫、備中加曽岡城主。天正四年大坂城兵粮救援の船戦に功あり、文禄二年朝鮮陣に隆景に従い戦功あり。隆景没後、慶長六年忠興に招かれて仕え、一万石。寛永四年十月朔日没。年七三】
       ja.wikipedia.org/wiki/村上景広
       http://proto.harisen.jp/hito1/murakami-kagehiro.htm
       http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mura_kai.html

 息・景則は父・景廣死去後もその遺領壱万石を相続した。八代に在る細川三齋の家老職的存在であった。三齋の死去後は遺言の実行に奔走したが、藩庁との軋轢が生じ後離国している。(再三ご紹介している庄林隼人も行動を共にした)

 最近まで気が付かないでいたが、同じく景廣を祖とする村上氏が存在していることを知った。村上孫四郎家である。三代目・村上吉之允は、天草嶋原乱当時は光尚の側に在って「美麗の若武者」と称えられたが、負傷して後亡くなり、其の死を惜しまれた。

 細川家家臣の家紋帳を見ると、「丸に上紋」の村上氏が他にも三家ほどある。村上水軍の血をひく一族であろうか。夫々の先祖附を精査しなければならない。
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北関始末實記・・その7

2009-11-16 23:25:31 | 歴史
 源七ハ弥助にひそかに申候ハ/十左衛門様も来り居給ひ候へ者是より
 いそぎ返て達し藤田か相待候談を申上ん我々共ハ此方よりまてとの使
 まてなり藤田滞留して待合するならハ此方よりまてとの使二ハ及まし
 是より取返し主君の御供して働たるかかましならん且又今の藤田
 か使高橋村へ未着さる内に高橋へかけ付此事御知せ申たらハ旦那
 十左衛門様御心取ニも可成事也/と云弥助拙者も同前ニ存候さらハ
 いそけやとて引返し道もなき所栗畑之中を真直に走り帰り
 藤田か使のいまた来さるさきに走り付て右之趣を申達す/藤田
 か使追付是へ参候筈也/と申す能心付て中途より帰りたり先二十左衛門

 来りたる由使にさとられぬ様にせよとて十左衛門乗来られたる
 馬を能々隠せとて奥の庭に率入させ三尺手拭引さきて馬の
 舌根をゆ者せ轡をも巻て供の者共を屋敷之裏に立隠連さ勢
 志つまりかへりて居たる所に屋かて藤田か使来て案内す源七出
 て状を請取其状に云
     先刻之返書令披見候其方を拙者悪口不仕との神文ハいたさす候
     成程去年以来不足存候間申たる事も有之事候夫ニ我等悪
     口不申との神文にて断を申候なとゝ御申候事侍ニ不似合仕
     (形カ)難心得候今日中ハ北ノ関ニ待可申候間意趣何分ニも可承候
     此上ニも御者つし可有候哉返事ニ御申越可有候以上
        七月廿三日             藤田助之進・在判
            前川勘右衛門殿
 此状を披見して十左衛門のいはく/源七立合て先此使を討とれ/と有け

 連者源七畏て刀を取て出るを十左衛門又源七を引とゝ免/使を
 討取事ハ先相待へし壱人成共助ケおいて後程大勢を一同に
 討取へしとて先二返事を渡したる其文に
     御状今披見候度々替り申たる事候相待可被申候追付
     夫ニ参り面談可も候以上
        七月廿三日         前川勘右衛門
            藤田助之進殿
 此書状相渡し口上に追付夫へ参候間被相待候へと申聞候而七月廿三日辰
 の刻過巳ノ上刻も可有候と覚ゆるニ前川勘右衛門・山名十左衛門高橋村を
 打立北ノ関へ趣く處ニ前かと前川彦左衛門召仕たる若黨ニ 名字不分明 
 何之文右衛門と申者其比山鹿町へ浪居して有けるか此事をきゝ付
 追付て申けるハ/今日北ノ関へ之御供被召連被下候得/と瀬戸源七を以
 願ふ十左衛門聞て/文右衛門ハ何事を聞付て如此に申すそ/とて再三制し

 とむるといへ共文右衛門申候ハ/私儀数年當地ニ罷在北ノ関方角之案
 内ハ能ク存知候御供衆之中ニ彼地案内被存候衆も可有御座候得とも
 私程ニ者よも御存知有間敷候御案内ニ者所之百姓さへ被召連事ニ候へハ
 只案内迄ニ被召置被下候へ/と半道斗り附来りて願ふによりさらば
 供せよとて召連たり無程南ノ関をでるに下番人立合/是ハ何方へ
 御越被成候哉御番所へ御届も無御座候/ととどめけれハ十左衛門ハ下
 馬していわく/山名十左衛門御急用之御使者ニ筑後江参り候也
 追付罷帰り候間其節御番通手形可相達候/とて言捨て
 馬引寄打乗り小乗してかけ通り如此にて南ノ関を通りやかて
 其辺の田中にて上下共に弁当をつかふに残暑熱き日中ニ餘りニ
 急きけれ者常の半分も食事するものなし弁当宰領台所人吉田
 又兵衛と云者御酒一ツ宛上り候へと樽をもて出て上下共に
 すゝむる。
                  只今1/3ほど完了
 
 
 
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緒方平左衛門という人

2009-11-16 18:29:31 | 歴史
 「寛文四年六月・御侍帳」に、御知行御合力米御御扶持方被遣衆・拾六人扶持--緒方平右衛門とある。この人についてのその後の記録としては、「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」に、「寛文九年十月御暇被遣候 四百石--緒方平右衛門」がある。これはいわゆる「陽明学徒追放」事件によって、扶持放しとなったものである。19名の有能な士が同様の処分を受けたが、綱利による過激な処分に叔父である長岡左近元知が諫言したが、かえって永蟄居の処分を受けた。(28年に及んだ) 尚、名前については出典により「平右」「平左」と混同している。

 先日来ご紹介している「庄林氏由来」に、この人の消息があった。
庄林氏三代目の隼人・一吉は三齋に付いて八代に在ったが、三齋歿後の正保三年扶持を放たれ肥後を離れている。妻は志水伯耆守(日下部与助)女、おさな名をお菊と称した人だが、隼人・一吉はこの妻と幼子(いつ)を義父志水伯耆に預けて出国したという。この妻(お菊)は翌年死去、幼子(いつ)は伯耆の元で成人し、嫁いだのが緒方平左衛門である。「庄林氏由来」によると平左衛門は後年、本田中務大夫政長・息中務大夫政武に仕えたと在るから、細川家の扶持放しにあった後のことであろう。
 四代隼人・一信が臨終に際し一信妹はるの二男岡田満徳丸に庄林氏の苗字を継がせたという。五代目と成るこの人は一致と名乗り、永井伊賀守直敬【ja.wikipedia.org/wiki/永井直敬】に仕え、主命にてのち一常と名乗った。

 「庄林氏由来」で、緒方平左衛門の名前を見たとき、微かな記憶が頭をよぎってこのような結果となった。
  
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北関始末實記・・その6

2009-11-16 11:00:23 | 歴史
 明レハ延宝元年 癸丑 春過夏たけ去年ノ騒動は何之沙汰もなく過行ける処に當
 延宝元年七月十九日ニ前川勘右衛門願上候ニ付願通御暇被下けり
 依之勘右衛門ハ家屋敷指上山鹿軍高梁村へ蟄居す此處ハ山名
 十左衛門知行所也又藤田助之進ハ願ハ無之候といへとも右同日御暇被下
 けり藤田父藤田市左衛門先年寛永十五年有馬御陳之節武功
 有之其節ハ榊原式部大輔様之御手ニ附たる浪人也有馬ニ而
 榊原様之御嫡子左衛門佐へ御附之処功名成ル見切を仕左衛門佐様
 二ノ丸一番乗被成候儀市左衛門御指図能仕候ニ付而也右之手柄を被仰立
 候間榊原様より當御家二御頼被成候而五百石にて召抱候仁也其子助之進
 也右之通他所より近年参候故當御国ニ親類も無之直ニ出国之達を申
 上方へ趣つきとて家内引具し同七月廿三日ニ熊本罷出其
 日昼前ニ山鹿町を通り則昼休の町宿より書状認前川勘右衛門
 住所高橋村へ書を立書状左之通
     一筆令啓候我等事今度其方一同ニ致浪人只今爰元
     罷通り候然上者我等ニ意趣無之候哉意趣有之においてハ
     北之関ニ相待居申候為其如此ニ候恐惶謹言
         七月廿三日        藤田助之進
             前川勘右衛門様
 勘右衛門返書ニい者く
     御状拝見候最前御取遣ニ及候節我等儀を悪口不被成候由
     神文を以被申越候上ハ此方より申分無之候旨先達而申し入候今以
     同前事ニ候以上
         七月廿三日        前川勘右衛門
             藤田助之進殿
 勘右衛門右返書を使ニわたし使を返し候即下に山名十右衛門は勘右衛門
 見舞ニ高橋村江参候ハ助之進今朝七ッ時ニ熊本来しか此由を聞て

 被申けるハ/拙者今日見舞ニ参候ハ助之進今朝熊本立候由聞届候処若ハ爰
 元通り懸ケニ押懸勘右衛門を討取立退候而他国にて手柄ニいたすへき所存も可有之
 哉と無心元存候ニ付今朝早々ニ打立見舞ニ参候也拙者察之通如案如斯
 と相見候急ニ用意致候様/ニと申渡し勘右衛門家来一ノ宮弥助・瀬戸源七
 を呼被申けるハ/勘右衛門先刻之返書ニ而者藤田者直ニ立退へし左有て他国へ
 参りか様/\まて手強く申懸候得共勘右衛門非強もの取合不申候杯と
 勝手次第を可申候依之藤田を立退せてハ勘右ハ勿論一類中我々迄も
 武者立不申何之道ニも討果し可申候弥助源七急喜藤田か旅行ニ追付て
 可申様ハ助之進相待連候へ勘右衛門追付夫江参候て可申談と申急て罷
 帰るへし/と申付る両人畏而山鹿町を馳行所に向ふより旅人と見へたる
 侍一人是も道を急て出来るニ弥助源七行逢たり両人無心元
 心にのり候ニ付源七立寄かと立ぬ顔色ニて/貴所ハ見申たる様成
 御仁にて候早道ニ急き何方へ御出被成候哉/と申候へハ彼者も/中々御近付に者

 不罷成候得共従是も見為申様成る御方ニて候拙者儀ハ藤田助之進か
 家頼ニ而候高橋村之前川勘右衛門殿へ使に参り候也/と云源七申候ハ/然らハ助之進
 様ハ只今北ノ関ニ御逗留候哉/尋候へ者彼使懐中より状を取出し上書
 をそと見せ此状の返事参候迄ハ北ノ関ニ相待居り候よし申て急き
 行過る
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庄林家相関図

2009-11-15 14:17:59 | 歴史

  「庄林氏由来」を理解する為に、略系図を作ってみました。

           養子・水俣城代(加藤忠広誕生ニ伴い離国)
加藤清正==========百助
            ‖
        +--おこう(若上さま)
        |   ‖------------+--中村三平
        | 中村将監       |
        |            +--名不知
加藤与三右衛門---+--太郎平        |
           |         +----女
           |            ‖--------縫殿 1000石
           |      棒庵-----下津将監 1083石
           
           |     矢部城主
           |     加藤越後守
           ↓         ‖-----------●
庄林隼人・一心===隼人・一方       +---お犬     ‖   
  ‖          ‖    |      伊丹角介 黒田蔵人・300石
  ‖          ‖    |                    
  ‖          ‖--------- +--隼人・一吉   +--いつ
  ‖          ‖    |   ‖     |     
加藤清正妾----------(清正)女     |   ‖---------+--隼人・一信------隼人丞・一致
                    |   ‖
            日下部与助-------------菊
          志水伯耆守    
                  +-----お百
                      ‖-----------●
                 松野亀右衛門      ‖
              大友宗麟二男道孝孫・1300石  大塚喜兵衛 500石・細川忠利殉死

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北関始末實記・・その5

2009-11-15 11:19:50 | 歴史
 此時節藤田も又々悪口仕廻候由申知らす方も有之勘右衛門又々憤を
 發しける最前ニ藤田か勘右衛門を役に立さるやつめなとゝ云たりしを
 聞出したるハ前川与三兵衛也其節与三兵衛勘右衛門ニ申けるハ/ケ様之藤田
 か雑言を云而廻る由慥ニ聞たる間堪忍仕な/と腰を押し別々一類

 中へ廻りて此事申談たるも与三兵衛也併若し藤田と取遣ハ神文
 之上ハも者や申ぶんなきと勘右衛門済したる事を又々取出し藤田
 を可討果も塩ぬけして不都合なりと思ひて過行てハまた/\世
 上之人口も聞に今其上一類中与三兵衛世上之沙汰虚実ハ志ら
 す度々勘右衛門ニ強異見を申候も難捨勘右衛門又々憤を發し
 藤田と取遣は脇ニなり与三兵衛と勘右衛門又一乱に及ふ勘右衛門申
 けるハ/藤田ハ誓言を以悪口不仕といふに段々悪口申やますととの取沙汰
 者藤田と拙者に喧嘩をさせ見物をさせ見物して慰めニせんとの所存の人ならん
 藤田雑言申やなずケ様に申たるの如此ニ云たるのとハ誰人の口より与三
 兵衛殿被聞出候哉其申たる人中事いひしと見へ申候間藤田ヘハも者
 や虚実を志らへ候に不及其中事をを与三兵衛殿へ申たる人を相手
 に可仕/と勘右衛門大に腹立して与三兵衛へ書状を遣す紙面左之通
     一筆致啓上候然ハ此間之一儀ニ付去ル廿三日藤田へ状を付廿五日

     朝討果し可申由申遣候処藤田返事ニ悪口ハ夢々不仕由日本之神
     文を以返事仕候此上に藤田へ押し懸討果申儀も誓言之上二ハ理
     不盡成沙汰ニも及可申と致遠慮差通し申候然上ハ藤田悪口不
     仕候二相究り申候然處頃日ニ仰候趣難心得候是ハ他家之衆
     脇より作り申候而悪口申たると存候何かし方より貴様ハ御聞候成哉
     及吟味其言たる仁を空いてに可仕と存候其人柄委細急度
     被仰聞可被下候為其如此に候恐惶謹言
         九月廿六日         前川勘右衛門・判
               前川与三兵衛様
 此書状指遣候処ニ与三兵衛従是御報可申入と口上之返事ニ而延引ス勘右衛門
 いよ/\立腹にて御返事ハ延引難心得有無之儀急度可被仰越候よし度々
 及催促勘右衛門助之進との一乱ハ脇ニ成新規ニ与三兵衛と勘右衛門と一乱
 こそ起りたれと風聞す此事を松野亀右衛門・塩山丑右衛門聞付驚候て

 早々津田治左衛門宅へ行申談候与三兵衛・勘右衛門・助之進三方へあつかい入
 津田・松野・塩山様々申込事ニ不成様ニ相済けり今度之儀ニ付津田
 治左衛門別而心遣にて取持時分ニ三ヶ所へ立越候而其節之儀何方も無
 疵ニ相済候依之勘右衛門方より治左衛門方へ為一札参入之筈なれ共折節
 風気ニ有ける故以書状一礼申置る治左衛門より返書左之通
      夜前預御紙面候得共致他出不能返書候然者此間之一儀ニ付
      致伺公候為御礼被仰越候趣御慇懃之儀尤ニ存候首尾能相済
      珍重ニ存候且又此節御風気之由申迄ハ無御座候得共御補
      養肝要ニ存候夜前之為御報如此ニ候以上
          九月廿九日        津田治左衛門
              前川勘右衛門殿
 此一乱之再發之儀九月廿八日迄ニ双方無事ニ相済此上ハ何事も無之候
 と取沙汰も相済其年も無事ニ暮シけり

                               進捗率1/4といった所です
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12/15 熊本大学文学部フォーラム

2009-11-15 08:46:47 | 歴史
 国立大学が法人化して、新たな試みを見せている。
昨日は偶然TVのスウィッチを入れたら、「見て聞いて驚く!熊大お宝発見伝--永青文庫は宝の山」という番組をやっていた。永青文庫研究センターの稲葉教授が登場、寄託文書の紹介や、小学生と共に野外(史跡)での勉強会をしたり、大変興味深い番組だった。あと四回どんなものが飛び出すか楽しみである。爺様も参加したいものだと思っていたら、次のようなフォーラムが開催されるようだ。是非とも参加したいと思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  【文学部創立30周年・永青文庫研究センター設立記念】熊本大学文学部フォーラム
       「日本の近世がわかる!―永青文庫から新しい研究の風を―」

 文学部の吉村豊雄・三澤純・稲葉継陽教授の編で今年三月に出版された『熊本藩の地域社会と行政―近代社会形成の起点―』(思文閣出版)にまとめられた、永青文庫史料による新しい「藩政史研究」の成果を分かりやすい形で市民に提供するとともに、それを現在の近世史研究の全体的動向の中に位置づけ、今後の研究発展の可能性を示す。

  1. 日  時  平成21年12月5日(土) 13:30~17:00
  2. 場  所  熊本大学黒髪北キャンパス 法文棟A1講義室
             ※入場無料・事前申込不要
  3. 主  催  熊本大学文学部
  4. 問合せ先   永青文庫研究センター事務室 ℡:096‐342‐2304
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北関始末實記・・その4

2009-11-14 16:45:45 | 歴史
 祐道立出/彼地の首尾は如何に/と尋ねる源七申候ハ/わけハ
 とくと志れ不申候得とも何とやらん吉事と心にのりたり皆々
 悦ひ給へ/といふ一ノ宮弥助申けるハ/吉事とハ何そや/と尋る源七笑て
 外に何の吉事のあるへきそ此方の勝軍そ/\とそ申ける
 藤田のか返事左の通り
    御状致拝見候然ハ内々の縁組之儀ニ付拙者方ニ而悪口を申候
    様に御聞之由先頃藪熊之允・辛川孫四郎を以縁組切レ候段ハ尋る人も
    有之候拙者儀を人ケ間敷被思召江戸ニ而仰聞候趣御心入等不残
    存候二付此一巻沙汰仕度方へも
    日本之神々末々達候然處ニ御紙面之趣難心得存候世上之人口ニ而
    候得者■■ニと申なし候ハんと存候拙者心底従是可申入候恐惶謹言
         九月廿三日           藤田助之進・判
            前川勘右衛門様
 右之通返書を遣翌廿四日藤田栃ノ木より帰り前川ニ書状を遣し候
 紙面左之通
    我等事今日湯ノ本より罷帰り候昨日湯ノ本へ御申越趣
    得其意候其節如申入我等に意趣可有儀近頃難心得存候然共
    御不足之上ハ昨日御申越候刻限ニ出会可申候此儀為可申入態々
    夜ニ入如此ニ候以上
         九月廿四日           藤田助之進・判
            前川勘右衛門様
 勘右衛門返事
    御状拝見候昨夜之御報ニ被仰聞候ハ日本之神た連にも不被成と
    被仰聞候此上者御不足無之候最前悪口雑言等被成候由承り

    り(ママ)候二付き申入れたる事に候御神文之上者少しも申分無之候左様ニ
    御心得候様ニと存候以上
         九月廿四日           前川勘右衛門
            藤田助之進様
 右之通ニ而藤田悪口不仕候由ニ付而前河不足ニ不存候由返事越
 遣候て先一通りハ相済たる様成事ニ候へとも世上之取沙汰ニ前川
 ハ討果ス気ニ而もなかりけ連とも一族中ニせり立られ心ならす討
 果さんと者申遣けれとも藤田か紙面に日本神と有之候を取所に
 して討果す事を屋めたりなんどと世上の取沙汰まち/\なり
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二代目・庄林隼人とその枝葉

2009-11-14 13:46:22 | 歴史
 初代庄林隼人・一心は、懐妊中の加藤清正妾を継室として迎えている。清正の命により、朝鮮で戦死した加藤(山口氏)与三右衛門の子太郎平に、清正妾が産んだ女子を娶わせ養子とした。二代目隼人・一方である。姉のおこうは、水俣城代で清正の養子・百介に嫁ぎ「若上」と呼ばれたという。百介は清正の継嗣忠広が生まれると加藤家を辞して、京都に帰ったらしい。おこうは熊本に残り水俣城代を継いだ中村将監に再嫁した。娘は下津棒庵の息・将監に嫁いだ。縫殿の生母である。

 その二代目隼人は、幼いとき父与三右衛門と死別した為、清正の従兄弟・中村壽林に養育され中村太郎平と称したが、庄林氏養子となってから豊後守を名乗った。処が忠広の息が豊後守を名乗ったため、伯耆守に名乗り替している。細川忠利が肥後入国した翌年、寛永十年召し出されて六千三百石を拝領した。そして再度名をかえ隼人佐としたとされる。伯耆守の名乗り替えは、忠利臣日下部与助(本姓志水氏)が伯耆守を名乗ったことによるらしい。

 隼人女お犬は矢部城主・加藤越後守に嫁いでいる、娘は伊丹角助に嫁いだ。いま一人の女お百は松野亀右衛門室となった。娘は大塚喜兵衛に嫁いだ。
 
 三代目・隼人一吉は忠興が亡くなった翌年、正保三年扶持を放され熊本(八代)を離国している。妻は志水伯耆(日下部与助カ)の女・ おさな名 菊である。娘いつは伯耆の元に預けられ、後・緒方平左衛門に嫁いだ。いつの弟、一信が太郎平を幼名とし後隼人を名乗り四代目となる。
                       (以上出典・庄林氏由来)

 細川家家臣・庄林氏の先祖附をみるとかなりの齟齬がある。推測するに初代隼人に娘があり結婚の後庄林氏を名乗ったのではないのか。何所まで「庄林氏由来」に近づくことができるか精査してみたい。
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北関始末實記・・その3

2009-11-13 20:56:38 | 歴史
  右之通ニ而藤田在所相知レたるニ依而
  則書状相認源七を使として栃木へ差立九月廿三日之亥刻也/源七書状を
  請取直ニ打立んとせしか西郷祐道ニ向て拙者門出に御酒被仰付候へ
  と申祐道聞て/扨々是ハ我等気かつかさりし/とて早々申付酒を
  出しけれ者源七一盞飲て云/栃木ヘハ拙者いまた罷越たる事無之候方角も
  不案内也殊更大事之御役なれ者彼地手始に拙者取廻し討取可申も難
  計候又ハ返書遣候間相待候様ニと留置其相待申候内二裏道などより直に
  奴け帰り此御屋敷へ不意に押懸ケ可申も知レ不申候申二ハ不及候得共随分
  可有御用心候拙者罷帰り一左右を御待被成候なとゝてうか/\と被成候ハゝ
  御油断之第一たるへく候扨右之趣ニ候へハ武士は誰連もとハ乍申別而拙者

  身ハ那きものと覚悟をいたし罷立候得共今生の御暇乞ニも成へし
  又二心臆病有間敷た免各に向ひ御約束之印に拙者儀ハ右御存知之
  通り常二ハ酒を好ミ不申候得共爰はひとつ請候て誓約仕候/とて小刀を
  ぬき指をさし候て/血を志たてゝかんなへに入レて飲けれ者祐道を初め其
  一座之者共是ハ尤至極也とて何連も血を出しかんなへに入レ各一ツ宛呑て
  歯かミをなし互に目と目を見合ける有様いか様の用に立ぬへき
  剛の者共とそ見へにける此時神水(クワミズ)一座の者共ハ先西郷入道祐道同嫡子
  西郷平十郎・一宮弥助・瀬戸源七・酒屋猪(伊)右衛門以上五人之者共其翌年
  七月廿三日北之関にて討果し時祐道・伊左(右カ)衛門ハ一番ニ真先二矢面に立忠
  義なる討死し西郷平十郎ハ父をかけぬけ討てかゝりたるに鉄炮手之
  深手なれとも少シもひるます相働一ノ宮弥助ハ討相の時是又手柄な
  る討死し無比類切相て敵数多討取深手を負け連とも一足も引
  不退働きけるとそゆゝしけれ酒屋伊左衛門ハ古町米屋町之清

  酒屋也しか父ハ元田伊右衛門とて當国之先主加藤主計頭殿に仕へて
  所々にて武勇有ける者なり禄弐百石にて先手組の内也加藤家没
  落之節所労して他国へ引取仕官も成かたく當地京町ニ蟄居して
  無程病死す其子酒屋伊左衛門也常々勘右衛門要用を申付勘右衛門目を
  懸け常々出入しけるか心さまかひ/\敷男らしき者にて祐道別而懇意
  して娘を以妻合て弥懇に有けるか今度是非/\平世報恩之御供
  仕らんと達て望けれども勘右衛門しきりにとどめ/町人まてもかりもよふし
  召連たりとあれ者打死しても死後のかばね乃上の恥也/と達てとゝめ
  けるゆへさあらハ御供ハ仕間敷候とて勘右衛門より先へかけぬけて南ノ関辺
  に待合て供したりけるか勘右衛門か矢面ニ立古今稀成る口上をよばわつ
  て討死したりけり
一  今度勘右衛門より藤田へ遣候書状紙面左之通
      態々以飛札令啓候、然者縁組之儀ニ付我等不定もの由夫故其方より
      縁組を切遣候勘右衛門儀何之役ニも立申奴ニ而無之なとゝ方々ニ而士ニ似合
      さる雑言悪口有之候段承届候其上ハ兎角を申ニ不及討果し可申候間其
      心得可有之候其方事入湯之由ニ而湯之本へ我等罷越候而存分可仕候
      得共遠路故其儀無之候急度御帰り可有候明日ハ
      天下の御精進日ニ候へハ乍此上公義を奉敬明後廿日朝日之出
      ニ川向井手口へ出候而相待可申候為に申入如此ニ候御報ニ様子御申越
      可有候間候恐惶謹言
        九月廿三日             前川勘右衛門重之・判
               藤田助之進殿
  右之通書状相認瀬戸源七ニ相渡シ廿二日之夜亥ノ上刻月之出に熊本
  發足し廿三日未ノ上刻ニ湯之本ニ着案内を乞候而取次ニ書状を相渡し
  湯小屋ノ大戸之外ニ扣居る其場所殊之外狭ク足場も悪敷如何存候へ共
  外に扣有へき所もなく用心して居る所に藤田か若黨立出て/御使内江

  御入御急速候様/にと両度迄申けれ共源七堅ク辞退して本の所扣入
  程なく返事出ス源七請取りて駆帰り其夜九ッ時に熊本へ着返書を
  出す
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