「肥後諷刺文学」にある細川家の仕置きを痛烈に批判した落書である。頭書きには「左の一篇ハ米田家書類中に有之候由佐田氏より借写す、いつ比の落書なるや」とあり、「閑餘漫録巻廿の八十」から写し取られたものであることが判る。
「他所に出て行け」という言葉は胸をえぐる。
去年より當春迄の飢餓誠に憐レなる有様也 細川の家の仕
置ニ万民あきはて申候歌に
今ははや餘所ニもゆけよ細川よ一期の内と約束もせす
天下も万民を不便ニ思召候ハゝ細川殿を他國ニ被遣よ 餘の
國にか様ニ五穀の高直なる所ハなし 聞合せても御覧ぜよ 扨ニ
情もなき事也 十匁米壱升なしとてハ諸職人諸牢人何として
渇命をつなぎ可申候哉 米高直ニして銀子餘■御座候を
銘ニよき事と思召■ 国家を治る事ハ唯万民をあまき様ニ
被来こそ御じひなれ 越中様ハ唯■人をいのちを助け給ふ計
心得られ候 御若輩なる様ニ存候 御存不被事と見へ申候大
過の者ハ速ニ罪■ニ行たるがよし 今度も北国米が川口ニ来り
たて共餘國ハ皆ニ入らるれ共御國計不入唯万民をかつハかし
給不計の御仕置 さりとててハなさけなし 此分に五穀も高直ニして
渇命ニ及ならバ乍恐無是非候間家老衆・奉行衆の家々ニ火を
付焼死ニわれ/\も可仕存候也 萬一御慈悲の心も出来たらバ
他国の米をも御入被来御国の米さこくも再苗被成国の万民
此うらめしさを忘申様ニ奉願候 乍返餘りのぜひなさに如此
分外仕候 よく/\御心を付給へ われ/\腹のふとけれハ下々のかつ
しをしらず よくふかくおごりをかまへたまハゝ天下もにくまれ
給ふべし
文面から察するところ、治年公の時代だと推測しているが、宝暦の改革の効果もうすれた天明期の庶民の難儀ぶりであろうか。
この文書が家老・米田家に残されていたというのも大変興味深い。この類の落書は奉行所に届けられるとされるが、このような痛烈な批判の落書は、仮令奉行所たりとも人目を憚ったものではなかろうか。