津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ゑんじやごのみ

2013-09-09 07:07:09 | 史料

寛永六年二月吉日書状(細川家史料-729-)は、光尚の結婚についての忠利の書状に対し、これを良しとするする三齋の返書である。
お相手はこれも三齋の孫(烏丸光廣女)である「禰々」である。

                      追而書之状見申候、其元之様子披見候二、ゑんじやごのみを仕候ハあしそうニ御入候由、
                      さやうニ可在之候、たがいニ力ニ成ことくのゑんしやハしうの為ニハわるき事候、又、公儀
                      むき其外おもハしからぬ衆と申合候ハ、事之外なる儀候、むかしよりゑんしやニ付よき事ハ
                      まれ成物候、心安候て物之不入が上々にて候、からす丸殿二番めのむすめと六と御申合
                      有度由、一段尤之儀と存候間、万所へをんみつにて可申遣候、定而可為満足候、我々より
                      申まてハ堅をんみつめされへく候、右之むすめ禰々と申候、そう一りハつニ御入候間、かた
                      /\可然候、大い殿と御たんかう有へく候、恐々謹言
                                                         三齋(花押)
                            二月吉日
                         未めかすみ、此中ハ猶々ほ(は)れ申候付、書中わけみへ申ましく候、此儀めてたきと
                         申事候 已上
                                 越中殿
                                    進之候 

ゑんじやごのみ(縁者好み)という言葉は三齋によるものだが、これは将軍家周辺や有力大名との縁辺(子女の結婚)を模索する、黒田家・毛利家のことを差している者と言われる。特に細川家の豊前入りに際し、年貢を先取りして筑前に移封した黒田家と細川家の関係は悪化し、三齋は嫌悪感を以てこれらのことを取り上げている。            
      ・黒筑むすめ、若君様(竹千代・家光)へ御上候由、十か九ツもこれにて可在之候、ミとの少将殿(徳川頼房)の事ハいかゝ
       候ハんや、若君への事十の内にて一はづれ可申事も可在之と存候、是又きゝ被届次第可承候事  元和六年三月廿六日・207

      ・黒筑縁邊之事、若君様ハ中/\さたも無之候、ミとの少将殿へ才覚候由候、これハとくりとしれ申ましく候、いな事候、念
       を入立きかれ、又可被申越候事                                            元和六年六月八日・212

      ・戸左門(戸田氏銕)と黒筑縁者ニ被罷成才覚之由、若調候ヘハ左門大炊殿(土井利勝)と知音ニ付、取つゝき候様ニとの
       才覚、又主計殿(井上正就)息女よめニ可被取之由、左候ヘハ何方へも筑前取つゝ■■かるゝ之由、色々様々才覚奇特不
       始于今候事                                                         元和六年七月三日・215 

      ・黒筑ミとの少将(徳川頼房)と縁邊之才覚之由、其外御前衆と入魂申才覚之由、始于今不申候事  元和六年八月十日・216

長政は息・右衛門佐忠之に大久保忠隣女を迎えたが、忠隣が失脚するとこれを離縁している。元和八年正月には、徳川秀忠養女(松平忠良・女)を迎えている。黒田長政は元和九年八月四日死去するが、生前の長政は将軍家や幕閣・有力大名への接近は驚くべきものがあった。また城を破却するなど阿諛追従も驚きを以て迎えられた。

忠之自身は夫人を亡くしたのであろうか、寛永六年にいたると、藤堂高虎女を迎えるべく動いていることを忠興は眺めている。
三齋が黒田家をゑんじゃごのみと評した直後のことである。但しこれは不調に終わっている。 

      ・藤泉州(藤堂高虎)娘、黒田左衛門佐(忠之)ほしかりの由、きとく成る才覚にて候、同心参承候由、大略調可申候事
                                                                       寛永六年六月廿一日・753

      ・藤泉すきと本復被申候由、又、黒田と縁邊調かね申候由、不思議成事候事                寛永六年七月五日・756

      ・藤泉州・黒田(忠之)縁邊之事、不調之由、不思議成儀候事                          寛永六年八月晦日・767 

黒田騒動や、天草島原の乱における采配など、黒田忠之に対する評価は優れたものとは言い難い。

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参勤ということ

2013-09-08 16:09:09 | 徒然

 山本博文氏の「参勤交代」や、根岸茂夫氏の「大名行列を解剖する・江戸の人材派遣」を読んでいる。

山本氏の解説を引用すると、「参勤」とは江戸幕府の将軍に拝謁するため江戸に出てくることを言い。東西の大名が交互に江戸に参府することから「参勤交代」という とある。 将軍家から領地をあたえられた大名は、服属の意志の表明として「参勤」をし、登城して将軍に拝謁することが服属の儀礼である。
東国大名・西国大名が隔年に交代して参勤するという制度は元和三・四年の頃とされる。この時期はいまだ證人(人質)制度が存在し、藩の重要人物はそれぞれ江戸へ證人を送っている。早い時期の證人としては、慶長五年の正月に忠利が江戸へ送られている。前田利家夫人芳春院(おまつ)等もこの時期である。後には各藩の江戸屋敷が整備されると、藩主夫人は江戸住まいが求められた。忠利夫人・保壽院が領国豊前をはなれるのは、元和九年十月十四日であり、その後豊前を訪れることはなく、又新たな領地肥後の地を見ることもなかった。

参勤交代は膨大な人数を必要とする。正保二年の光尚の参勤の時は、知行取149人・同下人1,268人・切米取1,305人、計2,720人であった。(山本氏著より) 。父・忠利は寛永十一年、改革案を上げている。人数の削減や出発時期の変更などについてである。後者は武家奉公人の出替り時期が二月であるため、出発は三月以降を願い、これは武家諸法度に於いて明文化された。

根岸氏の「江戸の人材派遣」によると、大名は国許からの人数を削減し、江戸に入る時渡り奉公人をやとって人数の辻褄を合わせたという。
これらが組織化され発言力をもち、一方では無頼化し幕府の規制も及ばなかったらしい。幕府の役人でさえ、こういう人たちの世話をうけて体裁を整えたというから、何をかいわんやである。

 

地元の熊本日日新聞社が発行している「すぱいす」というタウン紙があるが、ここで松寿庵先生と歴女が対話を通じて、歴史を面白おかしく紹介している。松寿庵先生とは、元熊本大学教授の松本寿三郎先生のことである。

ここでちょっと不自然な文章があり、少々首をかしげている。「江戸がホームで肥後はアウエー」参勤がすめば「国元へ単身赴任」
国元がホームで江戸がアウエーでしょう。江戸から見れば夫人をおいて国元へ帰るのだから、単身赴任は判らぬではないが・・・ちょっと不自然。
みなさんどう思われますか。 

                             

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congratulations

2013-09-08 06:46:55 | 徒然

                                              サムネイル写真

 昨晩は東京オリンピック開催についてのプレゼンテイションをTVで見ていたのだが、さすがに高血圧爺には決定をみるまで起きている元気はなかった。
今朝の明け方に成って決定の夢をみたのだが、起きてみるとこれがまさに正夢であった。
日本国民大方の願いであったろうから、まずはcongratulations・・・・・ 御同慶の至りである。

2020年・・・はたして元気にしているかどうかは疑問だが、なんとか滑り込みセーフの感じはする。
この決定はアベノミクスで少々明るさが見えてきた日本の経済にとって、大きな+となることは間違いないし、安倍首相も長期政権となる可能性も見えてくる。震災の復興や原発問題と云う避けては通れない大問題があるが、「原発廃棄」をうたう位の大英断を以て日本の安全を更なるものにして欲しいものだ。
                                                                                   

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薩摩の偽金づくりと龍馬の金策

2013-09-07 07:31:20 | 書籍・読書

 「偽金づくりと明治維新」はすでにご紹介したが、著者の徳永和喜氏は鹿児島の幕末明治維新史の研究者であり、その本山ともいえる黎明館に於いては調査資料室長を勤められるなど、まさに身内のひとである。そんな氏が発刊された本著はセンセーショナルに登場した。
当時のインフォメーションによると『維新成就の隠れた経済基盤の知られざる全貌!これまで「伝説」としてしか残されてこなかった薩摩藩の偽金作りについて初めて論証。偽金作りを通して、幕末の薩摩藩の動向のみならず幕府との経済的関係にも注目した、センセーショナルな一冊!』と説明されている。
畏友N氏は当時からこの著作に注目されていたが、今般4・5冊を手に入れたいと思われたが発行元の「新人物往来社」では手に入らないらしく、増刷の予定もないのだという。調べてみると新古本がAmazonで見受けられたので、氏のご依頼によりかわって4冊を購入した。Amazonでも残部が少なくなっており、いずれは貴重本に成る可能性がある。

確信犯的薩摩藩に於ける「偽金づくり」が顔を出したのだが、どうやら鹿児島に於いては受け入れがたい内容なのではないのだろうか。
これらを引用した論考など、積極的評価はあまり見受けられない。

今一冊は「坂本龍馬の金策日記」だが、副題にもあるように「維新の資金をいかにつくったか」は、「偽金づくり」とはいささか視点を異にしているが、読みあわせてみるとなかなか興味深いものがある。

福岡黒田藩の藩主・黒田長溥も大量の太政官札を藩ぐるみで作っているし、薩摩とは対極にある会津でもつくられたという。黒田長溥は嶋津斉彬の大叔父にあたる人だが、思考回路が同じなのかもしれない。(但し黒田藩は時流が見えず、おおくの有為の人の命がうばわれ維新に乗り遅れてしまった)

回天の大業を為すのには大量の資金が必要なのは大いに理解できることであり、「偽金づくり」は容易に想像することが出来る。一人鹿児島だけではなく広きに亘って同様の研究が行われるならば、維新史の新たな側面が見えてくるのではなかろうか。
 

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「米良家の歴史を書き終えて」 ―『肥後藩参百石 米良家』発刊~ とても長いあとがき ―

2013-09-06 06:22:15 | 徒然

 『肥後藩参百石 米良家』の著者・近藤健氏が、 Coffee Break Essay に「とても長いあとがき」と題して一文を残しておられる。

 八年に及ぶご苦労を経て、御先祖様の一族の歴史が見事によみがえった。いささかのお手伝いをした人間として、その過程をつぶさにみてきただけに、あとがきにあるそれぞれに胸を打たれる。当方に対しても過分な御言葉を頂戴して、いささか面はゆい感じではある。

私も現在、子供たちのために先祖のことを書き残しておきたいと思い筆を進めているが、なかなか前に進まない。
改めて父や母・姉のことを書こうとしても、すべて幽明を異にした今となっては知らないことが多すぎることに愕然とさせられる。
近藤氏の見事なお手本には対抗すべき術もなく、最初から白旗を掲げて気楽にいこうと思っているが、改めて先祖のお墓をしらべたり、遠戚の家系を調べたりしていると瞬く間に時間が流れ去っていく。しかしながら、これらの作業は心ゆたかにさせられるものであり、いま自らがこの世に存在する有り難さを実感させられている。近藤氏の八年間に及ぶご苦労も、まさにこのような御気持ではなかったかと推察している。

皆様に於かれても是非ともチャレンジされることをお勧めする。 

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レンズが撮らえた幕末日本の城

2013-09-05 22:44:38 | 書籍・読書
      レンズが撮らえた幕末日本の城
 
              山川出版社

私は特段の「城好き」ではないが、幕末の秘蔵写真で甦る往時の城。近年、各地で見つかった新発見の古写真を一挙掲載。134城を720点の写真で紹介。」されているというと、これは手元に置きたいと思うのが人情だろう。¥1,890円という値段もお手頃ではないか。

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交通違反

2013-09-05 22:01:04 | 徒然

今日は午前中に家内の用事で外出、近くのスーパーに立寄りほんの僅か先の三叉路を曲がったところで警察官にストップをかけられ、安全ベルトを装着していなかったので切符を切られてしまった。まあ家内が怒る事、「いつも言ってるでしょう・・・・」。こういう時はだんまりを決め込むしかない。ここ二三ヶ月の間に、進入禁止(時間制限)違反一回、安全ベルト違反一回をやらかしていて都合三回目である。多いに気が緩んでいる。
来年一月の誕生日で免許更新なのだが、事前の「高齢者講習」も受けねばならず、何ともやりきれない。
                                                                            
                                                                     そろそろこれも付けねばなりません

車も買い換えたばかりだし、いろんな面で免許返上とは参らず、講習を受けて違反の無いように気を付けなければならない。

進入禁止違反は反則金7,000円ですから・・・・・本の四五冊は買えますからねー。皆さまもどうぞお気を付け下さい。

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御先祖御由来(全)

2013-09-05 06:33:07 | オークション

先にオークションで 「肥後熊本 長岡家御先祖由来」 を落札したことを書いた折、刑部家のものだろうとしましたが、よく見てみますと、細川宗家・宇土家・内膳家・刑部家四家の由来書「御先祖御由来(全)」であることが判りました。

写真にある書名が書かれた紙は剥げ落ちていて、丁の間に挟まれておりました。糊付けするのはやめて、一応この場所であろうと思われる所に仮置きして写真撮影しました。内容に特段目新しいところは見受けられないようですが、細川四家をまとめた記録としては珍しいものだと思われます。
ここで発表出来るかどうかは別として、現在読み下しの作業にとりかかっていますが、他にやることが多々あり遅々として進みません。

それでも珍しいものを落札できた幸運をかみしめています。 

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秋めいて・・・

2013-09-04 13:27:16 | 徒然

 熊本に直撃の予想もあった台風17号は、鹿児島上陸後四国方面へ抜けて温帯低気圧となって消滅してしまいました。
四国では水不足で危機的状況に在ったようですが、ダムの水も少しは水位が上がったことでしょうが、災害につながらないことを祈ります。
お蔭で熊本は御昼前から久しぶりに晴天となりました。ここ数日は24~5℃の気温が続き、風も爽やかで秋~~と云った感じですが、どうやら午後からは真夏日に戻りそうです。
藤崎八旛宮例大祭の頃からは熊本は秋の気配が強って、お祭りの随兵行列になぞらえて「随兵寒合」とよびますが、あと十日か二週間ほどの我慢です。

          

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ポシェット・・?

2013-09-04 07:54:06 | オークション

                    ●火縄銃の弾入れ(肥後細川藩)!状態良好です。

                 

                                 ●火縄銃の弾入れ(肥後細川藩)

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黄飯・鳥めし・ナンハン料理

2013-09-03 10:01:23 | 徒然

 月日未詳(貼紙に寛永四とある)の三齋公自筆の切紙に次のようなものがある。(細川家史料612)

       (端裏貼紙、異筆)
       「寛永四 江戸にて」 
      黄飯ノ料理仕者二人給候、我々存候と替り申候間、上田忠左衛門弟只今可給候、
      鳥めしをもさせ、又ナンハン料理させて見申度候、已上
                                    三
           越中殿 

ここに出てくる上田忠左衛門は、わが曾祖母の実家・上田家の祖にあたる人物である。忠左衛門弟についても少々の消息が残されている。
         memo上田久兵衛家初代周辺     

 三齋公が忠左衛門弟を江戸へ召し出して、黄飯・鳥めし・ナンハン料理を作らせようというのだが、この人物は、忠利公の命により、豊前に於いて「葡萄酒」を作ったことで知られている上田太郎右衛門だと比定されている。 
上田久兵衛家、初代の周辺(ニ) 

 

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memo 井門亀右衛門

2013-09-03 06:56:18 | memo

幽齋公田邊城籠城の際、攻め手の赤松左兵衛の家臣としてその働き振りを賞賛された物頭井門(いど)亀右衛門は、後忠興公により召し寄せられる。
その働き振りを綿考輯録は次のように記す。

赤松左兵衛陳の内より、母衣武者一騎かけ出、杉の馬場口へ乗廻し候躰如何様一ふし可有之と、城中各覚悟いたし候に、左はなくて、堀溝にかゝミ、引兼たる者共を可引取との儀にて、馬上にさいを振廻し、見方を招き、馬を乗廻し、順逆に輪を乗、静に引取候躰、見事なる振也、母衣は白赤、横に段々筋、母衣の出しは同毛三ッ羽子、間に蛇の目有、馬は栗毛とも、粟毛共見へ候、城中よりねらひ、鉄炮余多打懸候へとも、程遠き故か不中、此武者赤松左兵衛・物頭井門亀右衛門重行と云者也

 

              亀右衛門重行---+---亀右衛門重忠
             |  千石・若年にて相果、跡断絶
             |

             |  中津別禄召出                        宇土代々家老・禄七百石
             +---少次郎重之---------次郎左衛門重之・・・・・・次郎左衛門重顕
                 八代御供         文三郎 宗中


次郎左衛門重之は「立孝公・行孝公・有孝公 御三代記」「宗中覚記」など、宇土細川家に係る記録を書き残している。

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沢村大学出奔の遠因

2013-09-02 14:43:26 | 史料

過日 沢村大学の帰参 を書いた。沢村大学の知行地・至津村でおき三齋の機嫌を損じ、大学が出奔するに至った事件のその詳細を知りたいというお申し越しがあった。少し長文に成るが、東京大学史料編纂所の「大日本近世史料--細川家史料一」から御紹介する。(p89)

              已上
         端午之祝儀ニ、其元(江戸)へ人を下候、乍次而申候
      一、元和貮年之儀候哉、我等江戸へ参候留守ニ、至津庄屋分別にて免相事ニ惣百姓筑前迄走せ、
         主ハ不存躰ニ而、高免故到津村之百姓不残國境迄退候、過分之田地荒候間、何とそ申付可然
         之由、彼庄屋志水九左衛門まて申ニ付、彼百姓ニ何とそ才覺仕候へと申付候へは、主存分之
         儘ニ申究、扨百姓共呼返候事
      一、我々下國之上、右之次第聞届候而、筑前を頼、國境之者山上り仕候事沙汰限候條、不残可誅
         伐之由候へは、田畠過分ニ荒申候條、棟梁人迄きり候て残ハ助可然之由、皆共申候つれと
         も、所之荒候ハ何程にても不苦候、か様之儀は後之さゝハりニ成事候條、不残きり可申と申
         付、彼庄屋を初■なてきりニ申付候、其内名子女子已下は助、似合ニ毛をも付候へ、本百姓
         ニ可仕旨申出候て、其方ニ小倉渡候時まて無異議有付申候つる事
      一、されとも右之百姓迄にてハ不残毛付不申ニ付、いつかたにてももとでの在之百姓、或牢人共
         よひ寄候へと申付候處、其比、自中國走り來候有力百姓善兵衛と申者田川ニ居申候を呼寄、
         明候田地相渡、無残所毛をも付、其上到津生之者ニても無之故、至津筑前程近ニ付、なまく
         さき事共在之はつけしらせ候へと、目付同前ニ申付置候而、事之外忠節之者ニ候つるを、何
                                                   元和七年
         と申わけ候哉、其方小倉へ被移候年、過半善兵衛田畠被取上、筋目之百姓ニ渡候へと被申付
         之由候而作毛被取上候、依是、迷惑仕り、段段前ゟ我々へ奉公次第、以書付元和七年十一月
         時分郡奉行まて上、其方ニ此理申候てくれ候へと頼申候處ニ、四五日過候て、其方ニ申候へ
         共無同心由候而、訴状返候由候事
      一、それゟ無是非當年まて堪忍仕居申候へ共、過分之田地を被取上、はや飢ニ及申ニ付、當年正
                                       國遠道倫
         月廿八日ニ又訴状を書、中川四左衛門をたのみ道隣所迄上申候處、有無之返事なく、其方上
         洛ニ付、もはや此上ハ走り申外無之候、されとも他國へ参儀も餘迷惑ニ存ニ付、此理一旦可
         申と存参候由申候て、我々鷹野へ参候時、直ニ訴状を上候、取テ見申候へは、右之次第にて
         候、能々我々覺候事ニ候事
      一、如右ニ候へは、其方領分之者其方を差置、我々へ飛越訴状上ヶ候ニても無之候、其方之みゝ
         ニ不入ニ究り、はや上洛候へは、飢ニ及堪忍も不成、又他國へ走候も迷惑ニ付、せんかたな
         く前のよしみニ我々所へ参候由申候事
      一、同村孫三郎と申者、惣様を走せ候庄屋名子ニて候シ、彼孫三郎女ハ庄屋譜代之女にて候を、
         彼庄屋孫三郎ニ仕合置申由候、右ニ如申、名子女子已下ハ助、本百姓ニ仕ニ付、孫三郎も本
         百姓ニ取立、右之女をも遣候處、彼成敗仕候庄屋むす子、其時は三ツ四ツニて候故、きる所
         へも不参、其儘置候處、成人候て今名を長蔵と申由候、それを其方被取立之由候而、孫三郎
         をまへのことく名子ニ罷成候へ、彼女も取返、彼曲者之子ニやらるゝ由候、我々成敗仕庄屋
         之子を被取立候所は卒度も無構候、可為分別候我々本百姓ニ仕立、女子迄遣候を、何之科
         もなきニ如前名子ニ被仕、剰女子まて取返、彼曲者むす子ニ被付候由、是ハ餘なけかしき儀
         候事
           一、其方之被申出候とて郡奉行共申候筋目之者と申ハ、筑前をうしろたのみニ仕、にくきしかた
         仕もの共候、新百姓と申ハ、所之荒候を毛を付、居住をはなれ、我々申儘ニ至津へ來候者候、
         如此故、我々小倉ニ居申候時ハ、新百姓其外名子を本百姓ニ仕候、此外ハ従筑前歸参人ニ候
         間、筋目之者とハ不申候處ニ引替、筑前へ走候者を筋目之者と被申出、田地をも被付、本百
         姓ニ我々取立候者を名子ニ被仕由候、此段、右ニ如申候事
      一、只今如此申所非別儀候、此儀書中ニてハ其方合点も参かね可申候條、所詮我々其方ニ直談申
         まて、右之善兵衛・孫三郎、人中申ニ任せ与風誅伐不被仕様ニと頼申まて候、面之上ニ而善
              
         悪究、其方にていかやうニも可被申付候、此上成敗候へは我々失面目候、可被得其意事
                まて                                                長元
      一、此返事在之○は、其方ゟ与風成敗之儀被申出候共、誅伐仕なと小笠原民部少輔・郡奉行ニ申
         付候、可被得其意候、恐々謹言
                                          三齋
            (寛永元年)卯月七日                  宗(花押)
                                  越中殿
                          進之候 

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告知・熊本史談会九月例会

2013-09-02 08:22:21 | 熊本史談会

 九月の史談会例会を下記の要領で行います。会員でない方のご出席も大歓迎です。
入会金不要、当日資料代として500円を申し受けます。

          期日:平成13年9月21日(土曜日) 午前10:00~12:00
          場所:熊本市中央公民館 5階2号室
                 駐車場は公民館裏手にあります(無料)
          
今回は熊本地名研究会会員であり、当会会員でもある福田晴男氏から、(仮題)大師まわりと熊本の町々 と題してお話を伺います。
これは氏が熊本歴研「史叢」に発表された「くまもとのお大師廻り」をベースに、地名研究の豊富な知識を交えてお話しいただき、古今の熊本の町の風景を感じ取っていただきたいと思います。お楽しみいただけるものと思います。多くの皆様のご出席をお待ちしております。 

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細川護煕展 図録 17冊セット 05年~13年

2013-09-01 18:58:10 | オークション

                      細川護煕展 図録 17冊セット 05年~13年

                                 護煕様の陶芸に興味がおありの方、これは掘り出し物かも・・・・・

                                      細川護煕展 図録 17冊セット 05年~13年

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